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神社・仏閣

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鳥居

くすもとじんじゃ(きたきのもと)
樟本神社(北木の本)

当神社は延喜七年(西暦九〇七年)の延喜式神名帳に樟本神社三座の一つとし記載されている式内社である。大和時代、用明天皇の御代、この付近一帯は物部氏の住地であった。物部守屋が本拠地である稲城の守護神として崇めていた布都大神を布都大明神として奉祀されたものと伝えられる。紀・記・古伝によると悪疫邪霊を祓い、病気平癒、又、鍬、靫を司る」農耕・武の神として広く村民の崇敬を受け現在に至っている。【出典:『説明石板』(八尾菊花ライオンズクラブ・樟本神社奉賛会、2002年)】

*説明には一部現状と異なる場合があります。

みそやじんじゃ
三十八神社

大字福万寺村社にして東西十五間三尺六寸、南北十八間、面積二百八十一坪大字の北方にあり、天照大神、八幡大神、春日大神を祭る旧福萬寺の鎮守なり。往昔佐々木某あり、福万寺に居る文和の頃去て美濃國安八郡に移住す、因て其舘址に就き更に此社を修営す(元禄十六年癸未十二月祠堂再修の願書に曰く當村氏神三十八社明神の境内往古よりの宮除地にて御座候処云々)明治五季壬申八月廃せられ、地は官林となし祠堂旧に仍て存置す、同十二年十月三十一日村民の請願により復旧の許可あり白幣御挿入にして古は境内より北方にありて、東西八間、南北十五間、面積百三十坪あり、明治五年壬申八月廃せられて現今芝地となり【出典:『大阪府中河内郡三野郷村史誌』(大正元年(1912)12月31日調整)より抜粋】

本堂

あんようじ
安養寺

この地は恩智字向谷といい、本寺裏山の通稱垣内山のすぐ裏手の山裾から大正十年(一九二一)風雨のため山崩れが生じその赤土露出部より流水紋銅鐸が発見された。流水紋様は弥生時代前期から中期にかけて近畿を中心に流行した流水紋土器に見られ、この鐸もその影響を受け作られたものであろう。 銅鐸は現在東京博物館にありその拓本が当寺にある。安養寺は浄土宗で本尊は阿弥陀如来である。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

鳥居・社殿

ごんげんしゃ
権現社

権現社の沿革:神社明細書には「慶長年間(一五九六~一六一四)に、熊野権現を勧請した」と書かれている。寛政二年(一七九〇)意満寺の南西端にあった愛宕神社を合祀した。鎮座地 当初は、黒谷一〇二一番地 山頂に近い常川(伝承)。その後、黒谷一一四二番地…現在地の南東 約一〇〇メートルに遷座。昭和三年(一九二八)十月三日 現在地に遷座。昭和十五年(一九四〇)境内を東部に大拡張(約五倍に)して神殿 拝殿 玉垣などを建設、神社の様式を整えた。昭和六二年(一九八七)神殿を改修、境内を東部に拡張した。境内にある古い灯籠 南部にある一基は元禄十三年(1700) 拝殿前の二基は宝暦二年(1752)【出典:説明石板』(1987年)】

鳥居

かしむらいなりじんじゃ
柏村稲荷神社

柏村稲荷神社由来:古来この辺りは旧大和川が流れていたが、たび重なる洪水により附近の人々は大へんな災害を蒙るので当時川筋に当る今米の庄屋中甚兵衛親子二代が五十年間幕府に訴えつづけ、遂に許可を得て現在の大和川に付替えられたのが、宝永元年(一七〇四)で二八一年前のことである。そこで旧川の川床や沼地を三年がかりで開墾し24町歩余りの新田とされたのが大田村の柏原仁兵衛芳次で爾耒同氏を偲び柏村新田と称えられる。起工を決意した仁兵衛は直に伏見稲荷神社に詣で御分霊を勧請してこの地に奉祀された。工事の完工は勿論、住民の家内安全、五穀豊穣を祈願され別名白姫神社とも称されるが、祭神は倉稲魂神と申し柏村の鎮守社として崇敬されている。【出典:説明石板』(柏村稲荷神社世話人、1985年)】

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