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御劔神社のしるべ
此の地、古くは河内國若江郡刑部郷と言い訓を聞けば刑部は、備中國賀夜郡、伊勢國三重郡等の刑部郷の例により於佐加倍と読むべしと伝えられその遺構であると言われている。
第十九代允恭天皇が皇后の忍坂大中女命の御名代として定められた民部であり、御名代部として奉仕した後にこのオサカベの民部が刑部(ウタエ)の職に奉仕したので、記紀では刑部とされている。ウタエは法務の職に仕え此の地に刑部が置かれたと伝えられている物部氏の始祖とされる饒速日命の子宇麻志麻治命より数えて十一世孫にあたる物部石持連刑部氏がこの地を統治していたと言われ、物部氏族であります。大和朝廷が律令国家へ移行する中で氏姓制度が確立し社会のしくみが変わり刑部氏は紀元六百八十三年第四十代天武天皇のとき凡川内直、錦織造らと共に連の姓を賜わり刑部造となり朝廷に奉仕している。
この刑部造に仕える部民が形成した村が刑部村となり刑部郷へと地域が広がっていき、村民の延命、繁昌が祈願され神々崇拝がたかまりその後神社らしきものが生まれたとされこれが御劔神社の始まりと伝えられ、約千二百年前と推定されている。
崇拝する神々すなわち祭神は素盞嗚命、天穂日尊の二柱神である。素盞嗚命は天照大神の弟神であり、出雲大社祭神大国主命の祖父神である。又古事記、日本書紀にも明らかで、武勇に秀でた神であり天照大神の天の岩戸隠れの神話、或いは、出雲の国の肥の川上流における山岐の天蛇(ヤマタノオロチ)退治により、天叢雲劔(アメノムラクモノツルギ)を得て、天照大神に献上した神話等、数多く残されている。この天叢雲劔は、第十二代景行天皇の皇子 日本武尊命(ヤマトタケルノミコト)の蝦夷征伐に際し、焼津の原に於いて、賊軍の大攻に遭い、草を薙ぎたて難を免れそれを草薙劔(クサナギノツルギ)と言うようになった。現在熱田神宮の神宝として、又天皇の即位に際し、三種の神器として、未来永久に伝承をされるものである。
天穂日尊は、天照大神と素盞嗚命と誓約(ウケイ)によって生まれた五男柱神の一柱で天孫降臨に先立ち、大国主命(オオクニヌシノミコト)との間で国譲りの大業を成し遂げた男神である。この様な偉大な神々を御祭神としている。
又河内式内五社の一社として言い伝えられて来た神社であります。牧岡神社、恩智神社、由義神社、弓削神社、御劔神社の五社で、河内住民の信仰の中心として存在しております式内社とは、平安時代初期、延喜のとき(紀元九百五年頃)第六十代醍醐天皇が律令制度の整備に際し、小野道凡、藤原忠平を宮中に招き延喜式を編集し全国の神社を神名帳に登録しこれを延喜式とされた。
当社は、式内社としての記録が残されていないが五社の中に列せられている事は、この
優れた格式が他の四社と同様に勝るとも劣らぬものと判断しても決して錯誤とは思えない物であり、之の言い伝えに益々自信を深めるところである。
参考文献
日本書紀、古事記、続日本記
新撰姓氏録 右京諸藩下・新撰姓氏録 河内国諸藩
和名抄、旧事本紀、中河内郡誌・近畿大観、八尾編年史(古代)【出典:『御劔神社のしるべ』説明石板】
弓削氏の祖神である天日鷲翔矢命と物部氏の祖神の彌加布都神、
比古佐自布都神の二座をまつる延喜式内社で、河内国でも枚岡、恩智社に次ぐ三指に数えられた大社であった。弓削氏は河内国若江郡弓削郷を本貫とする豪族で、弓矢などの武器の製作にたずさわる弓削部を率いた伴造であった。この一族から物部守屋や孝謙女帝に仕え、その信任を得た弓削道鏡を輩出した。「続日本紀」の伝える女帝ゆかりの西の京址や弓削寺址も附近にあり、歴史的に由緒深い地域である。なお本社殿は、もと東方三百メートルの小字・古宮にあったといわれている。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
式内社で当地山畑の産土神である、旧社地は百メートルうえの扇状地の谷口天神山にあったが、明治三十一(一八九八)年現地へ移った。 山畑神社はこの社の末社で春日御子大明神なり。 敷地は東西七メートル 南北一〇メートルあり、この付近から素焼の陶棺が出土、今は東京博物館にある。 境内に力石(一六五キログラム)があり、明治初期にはこの石をもちあげて力くらべを楽しんだ。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1981年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
熊野神社分神鎮座記念碑
昔、楽音寺熊野神社は、西の山の東金比羅屋敷にありましたが、明治初期に、貴島康彦先祖の土地である当地に移されたが、その後倒壊し、御身(神)体は、神立にある郷社玉祖神社に預けられました。昭和三十一年七月十五日、当神社再建にともない、預けた御身体を持ち帰ったが、御神体名については宮司並びに村民に尋ねたが誰一人として知る人がおらず、故に村の三役によって熊野本宮大社へ参り、宮司様とお会いして由来を聞いた。それによると「京都より摂津泉を過ぎ当国に入り田辺より近露を経て当地に至る沿道に諸王子社あり、古くは、哀微して僅かに地名のみそのあとを止めている状況であります。全国に分布する熊野神社の分社は5千社あって大阪府下には六十余社が分神としてまつられている」とのことであり、当神社もその一つであることが判明したので、昭和五十七年七月十五日、新たに分神として迎え、之を記念し建立したものである。【出典:説明石板』(1986年)】
教興寺字弁天山の山腹の巨岩の中にある。俗に岩屋弁天として名高く、神体は木彫の極彩色の弁財天であったが、明治の初め神仏分離後教興寺の本堂に安置されていた。 古くは教興寺の鎭守であり傍らに式内社で春日戸神と称した天照大神髙座神社が巨岩の窟の中にあった。いかなる旱天にも流れの変らない白飯の滝がある。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】
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