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奈良街道(ならかいどう)から田井中村に分岐する角の、西南の田んぼの中にあります。高さ1m、周囲5m四方の塚状の上に小さな祠がまつってあり、俗に五条宮と呼ばれています。 付近から奈良時代の瓦が発見されており、五条宮寺と称した寺の跡と伝えられています。また、地名から老原廃寺(おいばらはいじ)ともいいます。写真は、昭和40年代頃の「五条宮址」のようすです。【出典:『八尾市文化財情システム』より】
常夜灯として夜道の安全を守り、人々に親しまれてきた灯籠です。かつては、植松村の東口にあったものといわれ、のちに奈良街道沿いの仲之町(現在の植松6丁目)にあったものを移設しました。灯籠の一番上の笠の部分は櫓形をしており、灯りをともす火袋の台になる中台には「金毘羅大権現」、柱の部分の竿には「常夜灯」、「寛政十一年己未歳十月吉日」、「発起人 絹屋佐兵衛」の文字があります。この灯籠が、寛政11年(1799)に、金刀比羅宮(香川県仲多度郡琴平町)に参拝した記念に建てられたことがわかりなす。江戸時代は、自由に旅に出ることができませんでしたが、寺社の参拝なら許され、金毘羅参りや伊勢神宮へのおかげ参りが盛んに行われました。江戸時代の人々の信仰を考える上でも、貴重な文化財です。出典:【『ステンレス製説明板』(旧植田家庭・灯籠横)】
*説明には一部現状と異なる場合があります。
墓地の入口の六地蔵は古風である。その右端の一体は、温和な表情、丁寧な彫りで、均整がとれた地蔵である。像の左右に銘文がある。□□岳大菩薩妙□□尼菩提 天正三亥年宗清禅定□菩提深寛大法妙菩薩 二月三日 天正3年(1575)の造立である。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室・八尾市郷土文化研究会、1998年)より抜粋
東高野街道の教興寺の四つ辻を起点に、この権現社前を通って信貴山までの山越えの道は、丁石が建てられている参詣道として、市内ではこれだけである。往時、信貴山信仰が盛んであったことを物語る丁石の中には、灯明を入れる火袋を持った立派なものが多く、信貴山の宿坊千手院の鳥居の下の四十二丁石が終点である。教興寺の四つ辻には、市内で一番古い宝永五年の道標と、元治元年の道標の二本があり何れも信貴山案内のものである。またこの辻の寺川家の庭には千手院の関係者が建てた宝篋印塔があり、その台石には「天下泰平、五穀成就」の文字が彫られている。これから信貴山信仰の人達が、自分達の安心立命だけでなく、広くみんなの平和と豊かなくらしをも願っていたことをうかがうことができる。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
「信貴橋 文化十三子正月 石細工 服部川 小右エ門」
江戸時代後期、文化13年(1816年)に造られた石橋の「主(しゅ)げた」の部材です。銘文に「信貴橋」と記されていることから、江戸時代から信貴山への参詣道である信貴道(しぎみち)にあった橋と考えられます。ここから南200mの位置に、現在、恩智川に架かる「信貴之橋」があることから、この付近に架けられていた石橋の可能性があります。
またこの石材には、石工(いしく)の名前が記されていることから、当寺、服部川村に石工職人がいたことがわかります。
信貴橋の石材は、市内に残された数少ない石橋の歴史を知る資料として、貴重な文化財です。
【出典:『ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会、2010年)】
*説明には一部現状と異なる場合があります。
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