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きょうこうじ
教興寺

歴史遺産

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正門
正門

獅子吼山大慈三昧院教興寺は秦河勝の創建と伝えられ俗に薮寺ともいわれている。 真言律宗西大寺の末寺で境内南方の寺池は臨池式大伽藍の遺構といわれ、鎌倉時代西大寺叡尊によって復興され文永弘安の役には蒙古降伏の大祈祷が行われた。 また永禄五年(一五六二)河内国守護畠山高政と三好義興、松永久秀とのいわゆる教興寺合戦により全焼 江戸時代浄厳和尚によって再興されたが明治十八年の台風で本堂が倒れ旧客殿を仮本堂としている。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】

大門池
大門池

①湯川直光公勇戦の地碑:戦国時代の永禄3年(1560)、三好長慶は河内を制圧し、飯盛城へ入城した。これに対して、河内の畠山高政らは、永禄5年、飯盛城を攻めたが、松永久秀らに押されて、五月二十日、教興寺表で合戦となった。この時、畠山方として戦っていた湯川宮内少輔直光が戦死した。湯川直光の本城は和歌山県御坊市にあるが、昭和63年5月同地の人々が、湯川直光の奮戦を記念して、教興寺境内にこの石碑を建てた。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】 
②教興寺:獅子吼山大慈三昧院教興寺と称し、一名高安寺ともいい、俗には藪寺の名で知られる。真言律宗西大寺末で、古く秦寺といわれ、聖徳太子が物部守屋を討った時、奏川勝に建立させたものと伝える。境内の南方に寺池、大門池という池が今もあって、昔はいわゆる臨池式伽藍の形式を持った大寺院であった。大通寺、梅岩寺、意満寺などはその塔頭であったという。鎌倉時代に西大寺の叡尊が、南河内方面に布教の帰途、信貴坂から見えた余りに荒れ果てた当寺を見てこれを尋ね、由緒ある寺院であることを聞いて発願し、各地に浄財を募ってこの寺を復興した。そしてここに仏舎利を納め、また蒙古降伏の大祈祷を行った。足利直義が諸国に安国寺や利生塔を設けたが、中河内の国の利生塔は、当寺に設けられたといわれる。しかし永禄5年(1562)ここに陣取った河内国の守護畠山高政は、三好義興と松永久秀の軍勢と、いわゆる教興寺合戦となり、あえなく敗れて退き、教興寺は焼かれてしまった。江戸時代になって、延宝7年(1679)に覚彦浄厳和尚が当寺に入り、これを再興した。浄厳は錦部郡鬼住村の人で、高野山で真言律をきわめ、梵語を研究した学者で、五代将軍綱吉やその側用人柳沢吉保の信仰を得て、江戸に行き、瑞雲寺や霊雲寺を建立し、元禄10年(1697)には、高弟蓮体和尚に教興寺を譲って江戸に移り住んだ。有名な僧契沖も鬼住の延命寺で浄厳和尚に灌頂をうけ、悉曇の教えを受けた一人である。また、近松門左衛門も当寺に住み、その墓もあったといわれている。しかし明治18年の大暴風雨のため、本堂は崩壊したので、客殿を仮本堂として今に至っている。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】

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指定文化財未指定
時代飛鳥(伝)
関連する文化財など瓦、垣内村一里塚(教興寺財産区、市指定文化財)
施設情報レンタルサイクル:近鉄「高安」駅にあり
見どころ①現場:境内には、大門池という静寂な池がある 
②道中:近鉄「信貴山口」駅から現場までの道中、東側(山側)は高安山、西側は大阪平野、素晴らしい景色が眺望できる。
標識:教興寺の南近くの脇道に有り(信貴山道)。
備考①河内西国巡礼三十三か所:十六番、おおさか十三仏霊場:六番
②八尾市指定保全樹木 第22号 くすのき  
③最寄りの史跡など:大通寺
小学校区南高安小学校区
所在地八尾市教興寺7丁目21
交通ルート近鉄「信貴山口」駅から徒歩約10分/近鉄「高安」駅から徒歩約14分(近鉄「高安」駅からは、まっすぐ東へ上あがった突き当りにある)
最寄駅近鉄「信貴山口」駅/近鉄「高安」駅
電話番号072-941-7261
FAX番号
HPアドレス

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