石板
宝永元年(一七〇四)の大和川の付替えで、旧大和川流域の灌漑用水が乏しくなったため、流域の村々は新大和川から井路川へ水をひくことを請願しましたが、許可される前に大旱にあい、農民は困苦にあえいだ。このため弓削村の庄屋西村市郎右衛門は、幕府の許可を待たずに二つの樋を開いて農民を救った。捕えられ大阪城中で客死、家財没収一家は断絶となった。志紀、大正地区では、旧盆のころ「功念仏踊」を踊ったが、これは市郎右衛門の霊を慰めるためという。大正五年顕彰碑が建てられたが、外環状線道路工事のため、昭和四十五年九月現地へ移された。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
①宝永元年(ほうえいがんねん)(1704)の大和川の付替えで、旧大和川流域の灌漑用水が乏しくなったため、流域の村々は新大和川から平野川へ水をひくことを請願しましたが、許可される前に大旱(おおひでり)にあい、農民は困苦にあえぎました。
このため弓削村の庄屋 西村市郎右衛門は、幕府の許可を待たずに二つの樋を開いて農民を救いましたが、捕らえられ大坂城中で客死し、家財没収一家は断絶となりました。
志紀、大正地区では、旧盆のころに「功(講)念仏踊」を踊っていましたが、これは市郎右衛門の霊を慰めるためといわれています。
大正五年(1916)に顕彰碑が建てられましたが、外環状線道路工事のため、昭和45年(1970)9月に現地へ移されました。【出典:『八尾市文化財情報システム』より】
②1714年(正徳4年)農民を旱魃から救い家財没収一家断絶、その徳を偲び1916年(大正5年)に碑が建立された。大旱魃で、農民が困苦にあえいでいたため幕府の許可を待たずに二つの樋を開いて農民を救った。
記念碑
指定文化財 | 未指定 |
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時代 | 江戸 |
関連する文化財など | 大和川付替え |
施設情報 | レンタルサイクル:JR「志紀」駅にあり |
小学校区 | 志紀小学校区 |
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