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生涯にわたり作家・宗教家・政治家・易学者・画家など多彩な才能を発揮。
昭和26年(1951)12月~昭和50年(1975)3月までの約23年間、大阪府八尾市に在住。
昭和32年(1957)小説「お吟さま」で直木賞を受賞。長らく文壇界から遠ざかっていたことから「奇跡のカムバック」といわれています。
作家として、師と仰ぐ谷崎潤一郎さんや生涯の友となる川端康成さんをはじめ、大正・昭和期に活躍した文豪との交流が強く、「悪名」「こつまなんきん」「河内風土記」など河内人の気質や人情を題材にした小説も多数あり、世に多くの作品を残されています。
作家・瀬戸内寂聴さんの法名「寂聴」の名づけ親としても知られています。
弓削道鏡(ゆげのどうきょう、?~772年)は奈良時代の高僧で、八尾市南部を拠点にしていた豪族・弓削(ゆげ)氏の出身です。「弓削(ゆげ)」という文字は、今も八尾市の地名に残っています。
弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は、宮中での看病に功績があったとして称徳天皇(718年~770年)からの信任が厚く、太政大臣禅師、法王と次々と重要なポストを務めたといわれています。
称徳天皇は、平城京とは別に行幸する際の西の京(みやこ)として、現在の由義(ゆげ)神社(八尾市八尾木北5丁目)付近に由義宮(ゆげのみや)を造成するための工事を進めていましたが、称徳天皇の崩御とともにそれらは中止されました。弓削道鏡(ゆげのどうきょう)自身も政敵との争いに巻き込まれ、その地位から失脚し、その後、下野(しもつけ)国(現在の栃木県)に左遷され、称徳天皇の後を追うように、その地で生涯を終えたといわれています。
エドワード・S・モース(1838年~1925年、アメリカ合衆国)は、大森貝塚(東京都)の歴史的な発見者として知られる有名な明治時代の博物学者で、日本近代考古学の創始者とも言われています。
モースは明治10年(1877年)に来日。東京大学の初代動物学教授を務めるかたわら、ヨーロッパでドルメンと呼ばれる巨石記念物とよく似た遺跡(古墳)が日本に多くあることに興味を抱き、古墳調査など近代日本の考古学や人類学の基礎を築いたといわれる人物です。
モース自身が書き残した著書「日本におけるドルメン」(英語名:Dolmen in japan)において、1879年に古墳の集中地域として全国的にも有名な高安古墳群を調査したことが記されています。モースは、八尾市東部・高安地区の「服部川」、「郡川(こおりがわ)」に実際に立ち寄り、同地区に実在する横穴式古墳内部のスケッチ画を残しています。
飛鳥時代に当時の有力な豪族、物部氏(もののべし)と蘇我氏(そがし)との間で、仏教を巡る争いがあり、八尾はその古戦場となりました。
八尾市西部に位置する跡部地域を中心拠点としていた物部氏(もののべし)の豪族・物部守屋(もののべ の もりや、?~587年)と聖徳太子(574年~622年)・蘇我馬子(そが の うまこ、?~626年)の連合軍との間で戦となりました。
聖徳太子は、戦勝祈願のため四天王を祀り、その加護によって物部守屋(もののべ の もりや)を打ち破ることができたとして、その地に大聖勝軍寺(たいせいしょうぐんじ、八尾市太子堂3丁目)を建立したといわれています。
戦の中、聖徳太子が苦戦し、物部氏(もののべし)側に攻め込まれ危うくなったときに、そばにあった椋(むく)の木に寄り添うと、その幹が割れて開き、聖徳太子がそこに身をかくまわれて難を逃れ、その後、物部守屋(もののべ の もりや)を打ち滅ぼすことができたという言い伝えがあります。
その椋の木は、「神妙椋(しんみょうむく)」と呼ばれ、現在も大聖勝軍寺(だいしょうしょうぐんじ)境内に祀られています。
<業平(なりひら)の高安通い>
在原業平(ありわら の なりひら)が大和・龍田から高安山を横断する十三(じゅうさん)峠(十三[じゅううさん]街道)を越えて、高安にある玉祖神社(たまおやじんじゃ、八尾市神立5丁目)に参拝するとき、神立(こうだち)の辻にある茶屋の娘・梅野を見初め、その後しばしばそこに通うようになりました。在原業平(ありわら の なりひら)は、来るときはいつも決まって、近くの松の木から笛を吹いて梅野に合図をし、会っていました。
あるとき、笛を吹かずに梅野の様子をなにげなくそっとのぞくと、梅野が自分でご飯をよそっていたことから、自分でよそうことのない貴族の在原業平(ありわら の なりひら)は急に興ざめし、笛を玉祖神社(たまおやじんじゃ)に置いて帰りました。
梅野はそれに気づき、在原業平(ありわら の なりひら)の後を追いましたが見当たらず、悲しんで近くの渕に身を投げたといいます。
茶屋があった辻は、神立(こうだち)茶屋辻として今もその名をとどめています。梅野が在原業平(ありわら の なりひら)を追うた道も「おうと越え」といわれ、今もハイキング道として残っています。また、在原業平(ありわら の なりひら)が残したと伝えられる笛は、一節切(ひとよぎり)の笛として玉祖神社(たまおやじんじゃ)に保管されています。