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高安の馬場ともいう。この東高野街道から玉祖神社までの参道のうち、街道に面して立っている石の大鳥居から東へ入って五百メートルの間には、むかしは美しい松並木であった。 しかし寄る年波と、大気の汚染によってか、年年枯死するものあり今はない この地は、寛正元(一四六〇)年、畠山政長と義就の争いの時、義就は大和竜田にいた政長を攻めるためここに出陣、二手に分れて竜田に向ったが、神南備山の大合戦となり敗退した。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1981年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
光平は林に生まれ、早くから国学を学び、江戸の伴信友に師事した、弘化二(一八四五)年教恩寺の住職となり十六年間住んだが、仏事勤行よりも国典を講じ、和歌を教えまた御陵の調査に専念し、大阪、河内、大和に門人多く書画をよくした。 文久二(一八六三)年、天誅組の旗上に参加、のち捕えられて京都六角で処刑された。 生前大和、大阪の往復のさい、この地北方の十三街道を通っており大正三年光平五十年忌にあたり、河内の有志がこの墓をたてた。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1981年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
もとは熊野神社の境内にあった石仏で凝灰岩の石棺材を利用した石棺仏である。総高一.一五メートル下幅〇.六〇メートルの舟形をつくり蓮華座をもつ半肉彫りで、右手をあげて施無畏印、左手胸前にて薬壺を捧げる如来像である。像の周囲にある十五の梵字は薬師曼荼羅をあらわし、作風から見て室町時代の造立である。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾市教育委員会、1985年)】
*説明には一部現状と異なる場合があります。
神宮寺、恩智、法善寺などこの付近の共同墓地で、行基菩薩が作った河内の七墓の一つである。入口には戦国時代から江戸時代にかけての一石五輪塔が無数にあり、また墓地内には鎌倉時代に属する大五輪塔をはじめ、石造層塔や永禄元(一五五八)年戊午十月十五日の銘が読みとれる十三仏碑があって墓地の古さと、この付近が地方豪族の住地であったことを物語っている。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾市教育委員会、1985年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
融通念仏宗法立寺の下にある辻地蔵堂にある。高さ110㎝、幅56㎝の花崗岩に像高73㎝の地蔵立像を半肉彫にしている。美しく優雅な像容である。像の左右に次の銘文が陰刻されている。地蔵講一結衆本□衆 永禄十二年巳十月廿四日地蔵講の人々が造立したことがわかる。なお、この永禄地蔵堂内に元和の線刻地蔵がある。これは高さ30.5㎝、幅19㎝ほどの方形の板石に、像高15㎝の地蔵立像を線刻したものである。像の左右に、妙尼 元和四年とある。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】
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