【405件中 96~100を表示しています。全81ページ】 前ページへ 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 次ページへ
垣内、教興寺、黒谷、郡川、服部川、山畑地区の共同墓地で、行基のつくった河内七墓の一つである。戦国時代末期の小五輪塔や、江戸時代前期の年号をもつ名号板碑などが多く残っている。墓域の東側の高台には、高さ二メートルを越える大きな五輪塔が建立されている。空・風・地輪は後世のものであるが、火輪は軒反りも力強く鎌倉様式で、水輪も大きく重厚なものである。全体的にもつりあいがよく、整然とした五輪塔で、市内でも代表的な石塔といえる。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、甲斐房之助 書)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
①大阪玉造から深江、高井田を経て、神立から大和の龍田に越える峠をいう。文久3年(1863)8月、伴林光平が、大和天誅組の旗上げの時、大阪玉造に和歌の教授に来ていて、十六日の夜半その通知をうけて、直ちに脚気の重い足を引きずるようにして、急ぎこの十三峠を越えて、大和畝傍にかけつけたのである。大阪玉造と大和龍田方面とを結ぶ最も重要な街道筋の峠に当る所である。明和2年の峠の地蔵と天理教小寒さんの碑がある。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】
②十三峠の石仏:十三街道は、八尾市神立と平群郡を結ぶ道筋で、近世には大坂から伊勢参宮のルートとしても賑わった。その峠には旅人安全を願って福貴畑の村人により立てられた地蔵石仏(明治2年:1765)があり、街道の道標(元禄2年:1689)や松尾寺への道しるべも並んでいる。峠の北側には名称の起こりとなった十三塚があり、重要文化財に指定されている。このルートは「業平道」とも呼ばれ、平安初期の歌人で六歌仙の一人、在原業平が天理より神立の女性の元に通った道ともいわれる。平群町では、中部コース「十三街道と業平ロマンの道」の愛称で案内板を整備している。【出典:『木製説明板』(平群町福貴畑)】
市東部に横たわる高安山は標高488メートル、自然の宝庫です。
山ろくでは切花や花木栽培が盛んで「花づくりの里」とも言われています。春には、サンシュユ・モクレン・ツバキ・サクラなど色とりどりの花々が山肌を染め上げます。
なかでも、山腹にある水呑(みずのみ)地蔵周辺の木々は四季折々の彩りを楽しませてくれます。この水呑地蔵には、弘法大師がこの峠を越える旅人のために祈願して得た霊水と伝わる「弘法水」が湧き出ています。また、桜の名勝でもあり、花を愛でながらハイキングを楽しむ絶好のコースの一つです。
河内七墓の1つで、五力村(神立・水越・大竹・大窪・千塚)の墓地として管理されている。墓石の中のひときわ大きい五輪塔は、総高2mある。各輪に梵字を刻み、地輪に、正和2年(1645)11月19日、大窪村の岩田氏の墓である大字がある。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】
古墳時代後期の横穴式石室墳である。封土は墳頂部を除いてよく保たれており墳丘は径約二五メートル、高さ六、五メートルで、円墳の形状をよくとどめている。巨石を積み上げた横穴式石室は奥行一六、七六メートル、玄室の高さ四、一メートルを測り、高安古墳群中最大規模の後期古墳である。石室は古くから開口していたが、昭和四二年学術調査が行われた。遺物では凝灰岩製の家形石棺片、鉄製利器、金張鉄製品、土器のほか玉類、鉄地金銅張馬具など優れた副葬品が多量に残存していて被葬者の地位、性格を物語っている。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
【405件中 96~100を表示しています。全81ページ】 前ページへ 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 次ページへ