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心合寺山古墳は、5世紀前半につくられた中河内最大の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)で、当時この地域一帯を治めた豪族の墓と考えられます。墳丘長は約160mあり、史跡指定範囲の総面積は約30,000㎡です。墳丘は三段築成で、くびれ部西側に「造り出し(つくりだし)」があり、平坦面には円筒埴輪(えんとうはにわ)や朝顔型埴輪(あさがおがたはにわ)などが立て並べられ、斜面には葺石(ふきいし)が葺かれていました。埋葬施設は、後円部に3つの「粘土槨(ねんどかく)」、前方部の「方形壇(ほうけいだん)」の下に木棺がありました。後円部の粘土槨のひとつである西槨から、甲冑(かっちゅう)、き鳳鏡(ほうきょう)、刀剣類などの副葬品が出土しています。周辺には、西ノ山古墳や花岡山古墳など古墳時代前期から中期にかけての古墳が造営されており、心合寺山古墳を含むこれらを総称して「楽音寺(がくおんじ)・大竹(おおたけ)古墳群」と呼んでいます。【出典:『史跡の道・ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会、2005年)】
*説明には一部現状と異なる場合があります。
①当山の縁起は、現在の地に江戸中期より来福寺として小さなお堂があったところで、1906年(明治39年)に、現在地より東南200メートル生駒山系の中腹にあった恩覚寺と合併し、以来、来恩寺と称するようになった。来恩寺(融通念仏宗)としての歴史は100年足らずだが、来福寺(浄土宗)、恩覚寺(真言宗)の合併の名残として、本尊の観音菩薩像の脇にそれぞれ、阿弥陀菩薩と弘法大師像が安置されている。また、元の観音像は移転の際、傷みがひどく現在は本堂に安置されず、新しい観音像と観音画像を祀られている。【『一心寺来恩寺H.P』より抜粋】
②来恩寺前の街道すぐ西に、自然石のままの「目ナシ地蔵」がある。一説に恩智城の見付石といわれている。今はここに地蔵としてまつられている。また、その西(恩智街道・東高野街道交差点側)に恩智神社石鳥居がある。(【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)を参考】
当寺の開基は不明であるが、南北朝の時代(14世紀中頃~末)には阿彌陀如来を本尊とする念仏聖の道場となっていたようである。元文年間(1532~54年)に観音菩薩の篤信者持兵衛なる者の寄進による十一面観世音菩薩は霊験あらたかで往昔より近在の人々の崇拝を集め、俗に川辺観音と呼ばれている。1689年(元禄2年)念誉上人により旧本堂が再建され、その後、融通念仏宗、平野の大念仏寺の末寺となり、現在に至っている。【『蓮台山 常楽寺』より抜粋】
寿福山梅岩寺は黄檗宗万福寺末で、聖観音を本尊とする。もとは教興寺の塔頭であったといわれ同寺の古瓦が庫裡後方の畑地から出土した。山門の寿福山の額は隠元禅師の筆である。 本堂北方の國見台からは摂津河内の平野が一望にみられ、また境内には横穴式古墳があり春は桜の名所として名高い。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
大覚山と号し、曹洞宗に属す。 本尊は聖観世音菩薩である。寛延元年(一七四八)、土佐の長曽我部の子孫である好山和尚きたりてこの寺を建立した。本堂前の大覚山の扁額はその筆である。又、本堂には、沈氏の流れをくむ狩野得水による雄渾な龍の絵が天井に広がっている。 境内地には、神霊泉が湧き、八尾の豪商石田利清(環山楼主)をはじめその一族の墓碑がある。付近には古墳多く、山門前を東方に上ると、好山和尚の墓と言われる清涼塔がある この墓碑の下には両袖式横穴石室をもつ全長十四メートルもある後期の古墳がある。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
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