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聖衆山護念院来迎寺といい、浄土宗で阿弥陀如来を本尊とする。 本寺の創建年月は詳らかではないが、江戸の初期と思われる。宝永六(一七〇九)年当寺中興の祖の筆という「開基由来記」によると、信心深い老母に孝養を尽くす為に草庵を結んだのが、その始めといわれる。寺号のいわれは、近くにその昔行基菩薩により開かれた来迎井という井戸の跡があり、そこから来迎寺と称された。 付近一帯は、高安山古墳群で境内にも奥行七メートルもある塚があり、その石組は代表的なもの また北側の山の傾斜地には家型石棺の入っていた横穴式円墳がある。 境内から眺めはよく、晴れた日には六甲の山、大阪湾が見える。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1981年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
徳宝山と号し、融通念佛宗、大念佛寺末にして阿弥陀如耒を本尊とする。境内に建つ六字名号板碑は、近松門左衛門作の浄瑠璃 曽根崎心中で有名なお初、徳兵衛の墓碑で俗に夫婦塚 又は縁つなぎの墓といわれている。また門前の地蔵堂内に祀られる子安地蔵には、正和二年癸丑の紀年銘があり鎌倉時代末期の造立で傍らの矢髙地蔵はもう少し後期のものである。ともに八尾市内では貴重な石造遺品である。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
このお堂には、中央に薬師如来、右に不動明王、左に弘法大師坐像、賓頭盧(びんずる)さんがおまつりしてあります。今を去る三百有余年昔、郡川山麓のこの地に高雄山薬王寺に奉安されていた薬師如来、並びに不動明王は霊験顕著なること古老の言い伝えがあり、遠近の男女の信仰すこぶる盛んでありました。しかし悲しいかな明治維新直後、無住となり、寺は荒れ、混乱の中、土地も人手に渡り、やがて廃寺となってしまいました。それ以来、本尊薬師如来、不動明王の尊像は、止むおえず一時、常楽寺境内に於いて仮奉安されましたが、わずかに雨露をしのぐ実状でありました。時移り昭和十五年、はからずも当時郡川に住んでおられた植田安太郎氏がある夜、不思議にも薬師如来の霊夢をこうむり、御子息の正治氏(現在、静岡県沼津市在住)と共に薬王寺の復興に専心されました。また時同じくして、当時この土地の所有者であった大阪市の田中新右衛門氏も薬師如来の霊夢をこうむり、篤信により、土地の一部を堂宇建設敷地として寄附を申し出られ、村民有志相謀り再建の念願を達成しようとしました。しかし時があたかも戦雲急をつげ為に涙を呑んでお堂の建設を見送らざるを得ぬ状態になりました。戦後十年、時世も落ち着き、平和の日を取り戻すと、薬王寺復興の時機も愈愈熟そうとし、檀信徒の長年の思いが念願成就されたものであります。薬王寺薬師如来、不動明王を帰依し以て薬師如来の身心安楽と併せて不動明王の阿字の本体に浴し、現在に至っております。【出典:『木製説明板』(常楽寺住職)】
もとは玉祖神社の神宮寺で、神社のそばにありました。境内には高さ122㎝、幅62㎝の砂岩で作った十三仏の石造があります。下部には14人の女人の法名が刻んであり、十三仏信仰の女人講によって建立されたと考えられます。建立年代は記されていませんが、作風から桃山時代と考えられます。【出典:『中河内歴史探訪の道』(中河内地域広域行政推進協議会・八尾市教育委員会、2006年)】
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