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延喜式では小社に列せられており、現在、瓊々杵命(ににぎのみこと)と彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)を祀っている。「三代實録」に元慶七年(八八三)「河内国正六位上堺神二従五位下ヲ授ク」とあり、古代は坂合部連(さかひべむらじ)の祖神を祀っていたと考えられる。坂合部連の祖は、「旧事本紀」に「火明命(ほあかり)十六世孫」とある。近世には、小阪合村の氏神として崇拝されていたが、明治四十年八月二十日矢作神社に合祀された後、昭和三十二年旧社地に復興した。楠根川を挟んだ南西側には、古墳時代の集落跡である小阪合遺跡がある。 【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1994年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
旧信貴道に面した長柄神社は、旧庄内村と東郷村の境にあり、祭神は事代主命(ことしろぬしのみこと)で、別に八言(やえ)事代主神とも言われ、大国主命の子とされている。古くから、小守勝手宮(こもりかってのみや)と呼ばれ、神の託宣(お告げ)をする神社と言われていた。延喜式の制に列し、祈年祭に鍬一口を加えられた由緒ある神社である。明治四十年十月九日、矢作(やはぎ)神社に合祀され、社域には、今も古木が残っている。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、松岡裕子 書、1994年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
式内社で、祭神は物部氏の祖神である饒速日命、宇麻志麻治命をまつり、物部氏に属した弓削一族の本拠であった。 孝謙天皇の信頼を得た弓削道鏡は、この地の出身で、由義宮に天皇の行幸を仰ぎ、同宮を「西京」とした。さらに道鏡は弓削一族の栄進をはかったが、天皇の没後は失脚し下野国薬師寺別当として放遂された。 古く、この境内には長寿を保つと伝える「延命水」という井戸がある。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
楽山(ぎょうざん)上人は、江戸時代後期、木戸村(八尾市東本町)・清慶寺(融通念仏宗大念仏寺末)の住持であった人で、「八尾のお上人」とか「生き地蔵様」と呼ばれ、世人の尊崇を集めました。上人は、文化7年(1810年)、堺に生まれ、8歳で出家。20歳で清慶寺に来住し、荒れ果てた寺の復興に努めるかたわら、大和稗田(大和郡山市)の学僧・詮海上人に師事し、厳しい念仏求法の道に専心します。天保10年(1839年)、有名な楽山の大勧進が始まり、その念仏加持の力で幾多の霊験が示されると、清慶寺は念仏を授かろうとする人々で、門前市を成すほどであったということです。当時、寺内村(八尾市本町)に住んでいた『野史』の著者として名高い飯田忠彦も、上人に厚く帰依していたといわれています。弘化3年(1846年)、上人は請われて新清和門院(光格天皇皇后)の病を加持祈祷して治し、その折り賜わった品々は、今も清慶寺に寺宝として残されています。ところが、同じ年の11月、かねてより病弱であった上人は、37歳の若さで世を去ります。市役所南方の淨源寺墓地にある巨大な石地蔵は、楽山上人の墓であるといわれており、150余年を経た今も、多くの人々の信仰を集めています。【出典:『八尾市立図書館H.P 楽山上人』】
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