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竹渕遺跡(全景)

遺跡・古墳

たこちいせき
竹渕遺跡

八尾市域の西方、中央環状線(近畿自動車道)の西、大阪市域と接する竹渕地区にある遺跡である。この地域は「和名抄」にみえる渋川郡「竹渕郷」にあたり、古い地名であることがわかる。それゆえ、大阪市域にも遺跡範囲が広がることが予想される。本遺跡は一九八二年(昭和五七)、市立竹渕小学校の校舎増築に伴う調査で、古墳後期の、一辺約五メートルの方形の竪穴住居跡一棟と、焼土壙・土壙・柱根が残存する柱穴・弓状に曲がる溝が検出され、土師器(壺・羽釜)、須恵器(壺、杯身・蓋、器台)などの遺物も出土した。また近世の井戸なども検出されている。遺跡の範囲の確認や各時期の遺構・遺物が埋没しているとおもわれ、今後の調査が望まれる。【出典:『八尾市史(前近代)本文編』(八尾市史編集委員会、八尾市役所 昭和六十三年十月二十七日発行)】より抜粋  校区の北側には国道25号が東西に走り、東側には主要幹線道路の大阪中央環状線とその上を近畿自動車道が南北に走っています。一級河川平野川が東西に流れ、校区の周りを囲まれるように大阪市と接している比較的東西に長い地域です。校区内には公共交通機関はなく、最も近い駅としてはJR加美駅(JR関西本線)、JR新加美駅(JRおおさか東線)、出戸駅(地下鉄谷町線)がありますがいずれも市域外です。【出典:『竹渕小学校区地域レポート』(平成21年6月 コミュニティ推進スタッフ2009年)より抜粋】

ガード

名勝・史跡

じょうとう(はんわ)かもつせんあと
城東(阪和)貨物線跡

城東貨物線は吹田市の吹田操作場から南下し放出(はなてん)に至る北線が昭和四年(一九二九)三月に、また放出―加美―竜華(りゅうげ)(現在のJR大和路線久宝寺付近)間の南線が昭和六年八月に、それぞれ貨物専用線として敷設された。その後、昭和十三年十月に竜華操作場が創設され、関西線、臨港線、和歌山線、城東貨物線からの貨物は、すべてここで仕分けされることとなった。一方、現在の八尾空港の前身にあたる大正飛行場が第二次大戦中に軍用飛行場となり、航空廠(こうくうしょう)が設置されたのにともない、竜華から加美・長吉を経て同廠に連絡する軍用鉄道線が敷設され、軍用機材を同飛行場へ輸送する役割を担った。沿線のお年寄りによると、田んぼの中に一直線に線路が光っていた。戦争が激しくなってくると、夜中に有蓋・無蓋の貨物列車が絶えず行き来するようになり、兵器や人を運搬していると思ったが、軍の機密を話すと拘束されるので、誰も知らないふりをしていたという。【出典:『平野区誌』(平野区誌編集委員会、平野区誌刊行委員会 平成十七年五月二十一日発行)】より抜粋   JR阪和貨物線廃線跡地を活用したまちづくり校区内の3箇所で市道と交差しているJR阪和貨物線(関西線八尾~杉本町)の鉄道事業が、平成21年3月末をもって廃止されました。総延長11.3kmのうち、八尾市域分としては約500mの区間となります。【出典:『竹渕小学校区地域レポート』(平成21年6月 コミュニティ推進スタッフ2009年)】より抜粋

石板

その他

にしむらいちろうえもんしょうとくひ
西村市郎右衛門頌徳碑

宝永元年(一七〇四)の大和川の付替えで、旧大和川流域の灌漑用水が乏しくなったため、流域の村々は新大和川から井路川へ水をひくことを請願しましたが、許可される前に大旱にあい、農民は困苦にあえいだ。このため弓削村の庄屋西村市郎右衛門は、幕府の許可を待たずに二つの樋を開いて農民を救った。捕えられ大阪城中で客死、家財没収一家は断絶となった。志紀、大正地区では、旧盆のころ「功念仏踊」を踊ったが、これは市郎右衛門の霊を慰めるためという。大正五年顕彰碑が建てられたが、外環状線道路工事のため、昭和四十五年九月現地へ移された。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

地碑

その他

すみともかいしょあととやまもとしょうがっこう
住友会所跡と山本小学校

住友会所跡 この地は大和川付替後、宝永五年(1708年)玉串川河川敷に生まれた山本新田を経営管理した会所跡である。 享保八年(1723年)より住友氏が所有し、その後約二百二十年間を経て昭和十五年(1940年)に至り山本八幡宮更に八尾市に寄贈され現在に至った。この間明治六年(1873年)山本小学校の前身、河内第四一番小学もここに創設され、常に河内山本発展の原点であった。【出典・不明】

 山本新田について
 この地は、大和川付替え後、宝永五年(1708年)に玉串川河川敷に帯状に開かれた山本新田のあつたところです。山本の地名の由来は、この新田開発を請け負った泉州箱作村の山中善兵衛とその子庄兵衛、および協力者の大阪平野の本山(加賀屋)弥衛門重英の名前の一字ずつをとって名付けられたといわれています。  その後享保十三年(1728年)に、この地は加賀屋から大阪長堀の泉屋吉衛門(住友)に移り、同氏は現在の近鉄大阪線の延伸とともに始められた住宅開発によって分譲されるまでの約200年間、この地を所有していました。
 ここから東南約300m の距離にある市立労働会館は、この新田を経営管理した住友会所の置かれていたところで、同所には現在の山本小学校の前身である河内第四十一番小学も設けられていました。 市立労働会館の敷地内には記念碑も設置されています。【出典・不明)

長慶、義継の墓

名勝・史跡

みよしながよしのはか・みよしよしつぐのはか
三好長慶墓・三好義継墓

三好長慶は戦国武将で細川晴元の内衆として活躍。永禄三年畠山高政を追放し河内国の実権を握って畿内を制圧したが永禄七年(一五六四)病没、真観寺で葬儀が行われた。長慶の甥義継は永禄六年三好家の家督となるが天正元年(一五七三)織田信長に攻められ自刃。境内の二基の宝篋印塔の基礎部は返花式で和泉砂岩を用いる。銘には各々の法名と没年月日が刻まれ三好系図、鹿苑日録、讀史備要等の資料から両者の墓と確定できる。 三好長慶墓銘 永禄七甲子 聚光院殿大禅定門 七月初四日 三好義継墓銘 天正元載癸酉  般若院殿大禅定門 十一月十六日【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、1998年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

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