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「平野川近辺の遺跡」について:古代人にとって水は重要なものであったので、多くの集落が川沿いに形成された。平野川沿いにも縄文時代晩期(約2500年前)の生活痕跡が確認される。弥生時代(2300年前)になると亀井と田井中に人々が集住し、数条の溝で囲まれた環濠集落が出現するようになる。古墳時代初頭(約1850年前)になると中田を中心とする集落が誕生するが、これは大和へ通じる古大和川の水運を利用する港としての性格をもっていたとする説もある。この頃平野川沿いでは木の本に集落が形成され、中期(1600~1500年前)には出土遺物から渡来人との関係が指摘されている。また、亀井、東弓削や中田では地中に埋没した古墳がみつかっており、かつて八尾にも多くの古墳があったことがうかがわれる。奈良時代(約1250年前)には称徳(しょうとく)天皇と弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が河内を訪れ、平城京に対する西の京として都市計画がなされたが、それは中田から東弓削周辺であったと考えられる。鎌倉時代以降、人々は村を作り耕作地を広げていくが、老原や太子堂でそうした遺構が良好に残っている。それは、近年まで残っていた農村の原風景といえるものであった。【出典:『ステンレス製説明石柱』】
①当山正式寺号は紫雲山来迎院光明寺といい、1691年(元禄4年)秀山和尚の中興と伝える。阿弥陀如来を本尊とする融通念仏宗のお寺で、河内西国本尊の十一面観音は、霊験いちじるしく往古より、人々の厚い信仰を集めている。【『紫雲山 光明寺』より抜粋】
②融通念仏宗の光明寺の山門入り口の地蔵堂に、総高108㎝、幅73㎝、の舟形光背に、像高78㎝の地蔵立像が安置されている。室町時代末期のものであろう。名号板碑は、片麻岩製。頂部のとがった高さ180㎝のもの。中央に南無阿弥陀仏の六字名号と天正12年10月15日の紀年銘があり、その下に多数の法名が刻まれている。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)より抜粋】
③境内に建つ「中高安(なかたかやす)小学校発祥の地」の石碑。1872年(明治5年)小学校教育が始まったとき、この地区では光明寺が学舎として選ばれている。歴代の住職が漢学、儒学を教えるなど、地域の文教とかかわりが深い。【『紫雲山 光明寺より抜粋】
明圓寺は淡海山と号し浄土真宗西本願寺末にして阿弥陀仏を本尊とする。建久三年(一一九二年)源三位佐々木秀義の四男である佐々木高綱の開基である。当時は、成法寺村にあり真言宗に属した 天文二年(一五三三年)八世住職佐々木了秀が当所に移転し 天文十年浄土真宗に転じる 『淡海山』は 佐々木家が近江の豪族であったことから『近江』と言う名に由来するものである。【出典:『淡海山明圓寺 開基の由来』説明板】
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