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りんかくどうそうけんいひ
麟角堂創建遺址

“麟角堂創建遺址”の碑があります。戦国時代久宝寺城主渋川満貞の創建といわれ、堀川屋敷に学者を招き、講筵(こうえん)を設けたことに始まります。天正3年(1575)安井定重これを復興し、堺の学者今村道和を招いて、孔子像をまつり、漢籍の講義がありました。江戸時代には伊藤仁斎や東涯も招かれて講筵を開きました。大正2年安田覚三郎再び復興し、西村天因を招いて開講、同11年には私立学舎の認可を受けて漢学の講義を開いたこともありました。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光著・八尾市市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会1998年)より抜粋】

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ふるぐちじぞうそん
古口地蔵尊

寺内町北西の出入り口にある。地蔵堂は宝形造りの立派なものである。歯痛に霊験あると云う。像は高さ30cm、幅25cmの舟形光背に像高25cmの坐像である。【出典:八尾市史紀要第10号『八尾の石仏』(谷野浩著・八尾市教育委員会文化財室1987年)より抜粋】

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にしぐちどうひょう
西口道標

平野から八尾へ通じる古い八尾街道は、一度久宝寺の町中を通って、八尾へ抜けています。西口から入ると道はすぐ家に突き当たりますが、それを北に折れてすぐ一つ目の通りを東へ行きます。この通りを表町通りといいます。西口から表町通りへの折れ口のところに文政8年11月建立の道標があります。「左、平野、大阪道」、「右、八尾地蔵、信貴山」とあります。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光著・八尾市市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会1998年)より抜粋】

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あごなしじぞうそん
あごなし地蔵尊

久宝寺御坊(顕証寺)前の地蔵堂内にある。総高41cm舟形光背に高さ14cmの蓮華座を彫り出し、その上に立つ像高22cmの地蔵二尊仏で、双体道祖神を想わせる像容である。像の左に“をきのくに あごなし地蔵”と陰刻されている。あごなし地蔵は隠岐島の小野篁作といわれる地蔵が本家である。口の中が荒れたり、虫歯で痛んだ時に祈願すればなおしてくれる地蔵である。地方によっては、全快すれば「お名前をひろめます」と約束し、板に「隠岐国あごなし地蔵菩薩口中一切願成就業年男」と書いて四辻に建てるところもある。【出典:八尾市史紀要第10号『八尾の石仏』(谷野浩著・八尾市教育委員会文化財室1987年)より抜粋】

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にしぐちじぞうそん
西口地蔵尊

平野口地蔵尊とも云う。平野口は顕証寺の門前から北西にある辻で、旧八尾街道にある。寛政年間(1790年代)お逮夜市の日に南町焼けといわれる大火がおこり地蔵堂が焼失したので、現在地に移された。ここは火災のときの火元であったと云われる場所である。花崗岩製。像高30cmの地蔵立像であるが、要望は磨滅し、不鮮明である。【出典:八尾市史紀要第10号『八尾の石仏』(谷野浩著・八尾市教育委員会文化財室1987年)より抜粋】

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