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名勝・史跡

せいさつばあと
制札場跡

制札場とは江戸時代に幕府代官や領主が掟、条目、禁令を板又は紙に記して掲示し、住民に法令の周知徹底を期したところである。【出典:『説明石柱』(八尾郷土文化推進協議会・八尾市教育委員会)】

名勝・史跡

うえまつきょうどうぼち
植松共同墓地(植松晒墓地)

植松共同墓地由来:行基菩薩は幾内に多くの寺を建て、池を掘り橋をかけ布施屋を設けて仏教の布教と共に人びとの苦悩を救った。当時相つぐ天災に倒れた数多くの人のため河内に七墓を造り厚く葬った。この植松共同墓地もその一にあたり今に河内七墓詣りの信仰が伝えられる。【出典:『行基菩薩開基石版』(八尾市教育長 青井富三郎書識)】

歴史上の人物

こんとうこう
今東光

生涯にわたり作家・宗教家・政治家・易学者・画家など多彩な才能を発揮。
 昭和26年(1951)12月~昭和50年(1975)3月までの約23年間、大阪府八尾市に在住。
 昭和32年(1957)小説「お吟さま」で直木賞を受賞。長らく文壇界から遠ざかっていたことから「奇跡のカムバック」といわれています。
 作家として、師と仰ぐ谷崎潤一郎さんや生涯の友となる川端康成さんをはじめ、大正・昭和期に活躍した文豪との交流が強く、「悪名」「こつまなんきん」「河内風土記」など河内人の気質や人情を題材にした小説も多数あり、世に多くの作品を残されています。
 作家・瀬戸内寂聴さんの法名「寂聴」の名づけ親としても知られています。

本堂

神社・仏閣

あんようじ
安養寺

この地は恩智字向谷といい、本寺裏山の通稱垣内山のすぐ裏手の山裾から大正十年(一九二一)風雨のため山崩れが生じその赤土露出部より流水紋銅鐸が発見された。流水紋様は弥生時代前期から中期にかけて近畿を中心に流行した流水紋土器に見られ、この鐸もその影響を受け作られたものであろう。 銅鐸は現在東京博物館にありその拓本が当寺にある。安養寺は浄土宗で本尊は阿弥陀如来である。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

鳥居・社殿

神社・仏閣

ごんげんしゃ
権現社

権現社の沿革:神社明細書には「慶長年間(一五九六~一六一四)に、熊野権現を勧請した」と書かれている。寛政二年(一七九〇)意満寺の南西端にあった愛宕神社を合祀した。鎮座地 当初は、黒谷一〇二一番地 山頂に近い常川(伝承)。その後、黒谷一一四二番地…現在地の南東 約一〇〇メートルに遷座。昭和三年(一九二八)十月三日 現在地に遷座。昭和十五年(一九四〇)境内を東部に大拡張(約五倍に)して神殿 拝殿 玉垣などを建設、神社の様式を整えた。昭和六二年(一九八七)神殿を改修、境内を東部に拡張した。境内にある古い灯籠 南部にある一基は元禄十三年(1700) 拝殿前の二基は宝暦二年(1752)【出典:説明石板』(1987年)】

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