本文へジャンプ

五十音順に並べ替える

キーワード: ※スペース区切りでキーワードを追加できます。

【405件中 191~195を表示しています。全81ページ】 前ページへ 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 次ページへ

地蔵堂

その他

こうだちつじじぞう
神立辻地蔵

神立地蔵堂(南小路の地蔵)内にある。神立集落の中、十三街道を水呑地蔵へ上がる登り口に当るところにある。総高115㎝、幅48㎝の舟形光背に像高83㎝の地蔵立像がある。江戸時代初期をくだらない地蔵と考えられる。この地蔵堂の前に、第一番の石仏がある。ここから水呑地蔵まで、33カ所、六十六番までの二対組み合わせの石仏が並ぶ。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】

石碑

名勝・史跡

おんぢじょうし
恩智城址

恩智城は中世この地の豪族恩智左近満一が築いた。自然の高地を利用した城郭で高安連峰との間に堀をめくらせ前方に大阪平野を一望のもとにおさめた。 堀の中にかつては小島があったがそれはむかしの一の丸で現在の城址は二の丸の址という。 正平三年(一三四八)四條畷の戦いで楠木正行が戦死し恩智城も落ちた。 学制領布のときここに小学校が新築され、今では桜の名所として知られている。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾教育委員会、1980年)】 
*恩智左近の出身地などについてはいくつかの説があります。

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

恩智左近の墓

名勝・史跡

おんぢさこんのはか
恩智左近の墓

恩智左近満一は恩智神社の社家の出で、この地の豪族として恩智城を築き、楠木正成方に味方した八臣の一人である。 湊川の戦の後は、その子正行を助けて南朝方を守ったが不幸にして延元二年(一三三七)七月熱病のため急死した。 傍の墓碑十六基は明治十年の西南戦争に官軍として従軍し、戦死した中河内近在の人々の墓である。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】
*恩智左近の出身地などについてはいくつかの説があります。

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

本間孫四郎の墓

名勝・史跡

ほんままごしろうのはか
本間孫四郎の墓

孫四郎忠彦は、相模の人で新田義貞の家臣であった、弓の名人であったと伝えられ、足利尊氏が四海から大兵を携して東上するや、これを和田岬で拒けた。 後この地の住人となり、本間垣内の小字もあり、今に子孫の本間家がある。 この二伯の五輪塔は、孫四郎の墓と伝えられ、梵字一字があるが判読は不明、鎌倉時代に属する。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1975年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

石板付近

名勝・史跡

こうだちちゃやつじ
神立茶屋辻

この街道はむかし大阪玉造と大和竜田を結ぶ重要な道筋にあたりこの辻には多くの茶屋が並んでいたのでその名がある。また在原業平と茶屋娘の恋物語りで名高い。 業平が峠を越え玉祖神社へ参詣の途中、福屋の娘梅野をみそめたが、ある夜東窓があいていたので中をのぞくと、娘が手づからでめしを食っているので、急に興ざめ逃げ帰った、娘は後を追ったが見あたらず悲んで渕に身を投げた。 この高安の里では、今でも東窓を忌み、これをあけると娘の縁が遠くなるという伝説がある。 この道を登ると水呑地蔵、十三峠がある。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1981年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

【405件中 191~195を表示しています。全81ページ】 前ページへ 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 次ページへ

このページのトップへ