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当社は、室町時代河内守護職であった畠山氏の小山砦から鬼門の位置にあったので、その守護神として創建されたと伝えられ、沼の産土神である。本殿は一間社流造で覆屋内に鎮座し江戸時代初期のもので、市内に残存する古い建築様式の一つであり同時代のものと考えられる珍らしい木造狛犬二対も保存されている。またこの付近は宝永年間の大和川付替え工事のときその川筋に当っていたが村民が一致協力して村と神社を護った。それ故に現在もこの付近は千両まがりと呼ばれている。【『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾市教育委員会、1986年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
融通念仏宗法立寺の下にある辻地蔵堂にある。高さ110㎝、幅56㎝の花崗岩に像高73㎝の地蔵立像を半肉彫にしている。美しく優雅な像容である。像の左右に次の銘文が陰刻されている。地蔵講一結衆本□衆 永禄十二年巳十月廿四日地蔵講の人々が造立したことがわかる。なお、この永禄地蔵堂内に元和の線刻地蔵がある。これは高さ30.5㎝、幅19㎝ほどの方形の板石に、像高15㎝の地蔵立像を線刻したものである。像の左右に、妙尼 元和四年とある。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】
孫四郎忠彦は、相模の人で新田義貞の家臣であった、弓の名人であったと伝えられ、足利尊氏が四海から大兵を携して東上するや、これを和田岬で拒けた。 後この地の住人となり、本間垣内の小字もあり、今に子孫の本間家がある。 この二伯の五輪塔は、孫四郎の墓と伝えられ、梵字一字があるが判読は不明、鎌倉時代に属する。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1975年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
高安の馬場ともいう。この東高野街道から玉祖神社までの参道のうち、街道に面して立っている石の大鳥居から東へ入って五百メートルの間には、むかしは美しい松並木であった。 しかし寄る年波と、大気の汚染によってか、年年枯死するものあり今はない この地は、寛正元(一四六〇)年、畠山政長と義就の争いの時、義就は大和竜田にいた政長を攻めるためここに出陣、二手に分れて竜田に向ったが、神南備山の大合戦となり敗退した。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1981年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
墓石群中,総高80cmの舟形光背の中に宝篋印塔形を薄肉彫している。塔身部の月輪の中に阿弥陀の梵字「キリーク」を彫っている。基礎部に銘文があり、天正元年(1573)9月8日の造立であることがわかる。【出典;八尾の史跡(棚橋利光著・八尾市市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会・1998年)
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