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鳥居

はくさんじんじゃ(おいはら)のほうきょういんとう
白山神社(老原)の宝篋院塔

老原の白山神社の神殿前石段の横にある。基礎石の上に初重軸部を置き、その上に三層分のみが古く、室町時代前期を下らないものといわれる。焼けた跡があり、戦国時代の戦火にかかったものであろう。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光著・八尾市市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会1998年)】より抜粋

鳥居

はちおうじじんじゃ
八王子神社

式内社で常世岐姫神社といったが地元では八王子神社として親しまれている。 古記録によれば宝亀七年(七七六)の夏河内國大県郡の人正六位上、赤染人足ら十三人に常世岐の姓を与えたという。 この赤染とは茜染のことでこのあたりの人々が茜染めをやっていたことがわかりこの人々の祖神を祭ったものであろう。 今は安産の神として名高い。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

社殿

はっとりがわはちまんぐう
服部川八幡宮

御祭神:誉田別令(応神天皇)  菅原道真公
由緒:江戸時代以来、服部川村の氏神として八幡宮、八幡社といわれて崇拝された。淀藩領高安郡寺社帳によると、当社は正八幡宮とあり、相殿に天神社を祭る。境内に無本寺の西光寺(西迎寺)があった。拝殿前の狛犬には、「巳亥天保十年十一月吉日」の銘があり、この年に奉納されている。明治七年三月二八日、高安郡神立村の玉祖神社に合祀された。その後、明治二十五年三月三十一日、旧社地に社殿を造って、四月三十一日夜、正遷宮を行い、祭った。しかし形式的には玉祖神社に合祀された状態であったが、太平洋戦争後まもなく分離独立し、現在地に遷座した。境内のくすのき、むくのき、あきにれは、八尾市の保全樹木に指定されている。【出典:説明石板』(稲田正春・飯田信一・飯田光治・川村喜代次・乾秀夫・宮崎利彦、1998年)】

石板付近

ひがしこうやかいどう(かいちいちりづか)
東高野街道(垣内一里塚)

俗に京街道、高野道といい、伝えによると白河法皇が弘法大師三〇〇年遠忌に参拝のとき、河内石川の安助上人が開いたという。京都と高野山を結ぶ参拝路で、平安時代から鎌倉時代にかけては歴代天皇、諸公家たちが往来し、南北朝時代には京都と南朝方軍勢の出合い道であり、戦国時代には畠山一族、三好一族などの合戦の通路となった。この垣内一里塚は、その里程をはかるもので、数年前までは善根寺、四条、楽音寺にもあったが、いまはここだけである。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

東高野街道・恩智街道 交差路

ひがしこうやかいどう・おんぢかいどう
東高野街道・恩智街道

東高野街道は京都から高野山参りをする東側の街道で、この名がつけられているが、地元では京都への道ということから京街道と呼ばれてきた。 ここは、東高野街道と恩智街道の交点であり、二本の道標がある。 その一本は恩智の人達が建てたもので、文字、彫もよく この地の人達が旅人に親切であり、道路を大切にしていたことを感じる。 恩智街道はここから曙川を通って、国鉄八尾駅までの道である。明治二十二年大阪鉄道(国鉄関西本線)の八尾停車場が開設されると、この街道の通行者が多くなり なかでも大阪からの信貴山参りの人達がこの道を利用したため、大正時代には荷車に加えて自動車が往来するほどにぎわった道である。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

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