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御祭神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)
由緒 長瀬川上流左岸と了意川(現平野川)上流右岸に位置するこの地は早くから拓け、古くから農作に從うもの現れ、豊穣の神といわれた素戔嗚尊を祀り氏神として豊作をねがったのである。老原は、奈良朝期から存在していたと伝えられている。この神社の創祀は未詳であるが、当南老原定善寺が大永二年(一五二二年)の創建と記録されていることから、それより久しく以前であることは確かであろう。現在の灯籠が最も古く享保十三年(一七二八年)次いで鳥居が文化十一年(一八一四年)に建立されており、旧社殿もこの頃再建されたと思われるが、昭和三十六年(一九六一年)の台風渦で倒壊、その後仮殿となっていたが、このたび氏子中の総意により新しく造営されたものである。平成十年十一月 記之【出典:『造営記念由来石板』(1998年)】
三野県主一族の祖神、角凝魂命・天湯川田奈命を祀る延喜式内社である。三野郷と呼ばれてきたこの地一帯は、古代天皇家の直轄地といわれる三野県のおかれていた土地である。三野県主氏はこの県の管掌氏族で、河内国はもちろん朝廷においても有力な氏族の一つであった。中世この地は玉櫛庄となり、正和三年(一三一四)に七条院領美濃勅旨田、また永禄八年(一五六五)には美濃勅旨本役六百文が八尾常光寺に寄進された記録がある。【出典『史跡の道・説明石板』八尾市・八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
都塚:河内志に「荒墳五有都塚村有祗園塚、弁財天塚等号」などとある。都留美島神社の地を都塚、西方田圃中の塚を弁財天塚、北方村の入り口を大塚、融心寺内の塚を祇園塚と呼んでいる。古く10塚あったので、なまって都塚となったともいう。古瓦片が多い。神社は式内社で、もと南方にあったのを、ここに移したものと伝える。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】
三好長慶は戦国武将で細川晴元の内衆として活躍。永禄三年畠山高政を追放し河内国の実権を握って畿内を制圧したが永禄七年(一五六四)病没、真観寺で葬儀が行われた。長慶の甥義継は永禄六年三好家の家督となるが天正元年(一五七三)織田信長に攻められ自刃。境内の二基の宝篋印塔の基礎部は返花式で和泉砂岩を用いる。銘には各々の法名と没年月日が刻まれ三好系図、鹿苑日録、讀史備要等の資料から両者の墓と確定できる。 三好長慶墓銘 永禄七甲子 聚光院殿大禅定門 七月初四日 三好義継墓銘 天正元載癸酉 般若院殿大禅定門 十一月十六日【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、1998年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
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