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宝永元年(一七〇四)大和川が付替えられたが、それまでは玉串川と長瀬川はもとの「大和川」であった。二俣で分流したこの川は、山本を通り、稲葉(東大阪市)で吉田川、菱江川に分かれ、吉田川は深野池、新開地に入り、再び菱江川と合流、森河内に至り長瀬川と合流し、大阪城付近で淀川へそそぐ。 大和川付け替え後は、多くの新田が生まれたが、そのうち「山本新田」は、宝永二年和泉の人で山中庄兵衛、本山重英により開墾された。いま山本八幡宮の境内東側、玉串川ぞいにある一対の燈篭にその銘がある。【出典『史跡の道・説明石板』八尾市・八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
当地域は安康天皇の設けられた穴穂部の地、聖徳太子の生母間人穴太部皇后の成人の地といわれる。当社は古代氏族穴太氏の一族の祖紳を祭る産土神で、境内に残る寺跡はその氏寺であつたと考えられる。同寺は河内鑑名所記、和漢三才図会に名刹千眼寺として紹介されている。この社の付近一帯はそのむかし大集落の繁栄がうかがわれこれまで奈良時代から室町にかけて住居跡の埋没が確認され 昭和五六年の調査では多くの遺物が発掘されている.【出典『史跡の道・説明石板』八尾市・八尾郷土文化推進協議会・八尾市教育委員会、1982年】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
老原の白山神社の神殿前石段の横にある。基礎石の上に初重軸部を置き、その上に三層分のみが古く、室町時代前期を下らないものといわれる。焼けた跡があり、戦国時代の戦火にかかったものであろう。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光著・八尾市市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会1998年)】より抜粋
浄土真宗本願寺派の寺院である。江戸時代、八尾木村総道場善立寺といった。寛延2年(1749)ころ、八尾木村の木綿屋利右衛門の娘おしもという人がいて、大変信仰の厚い人ということで、「妙好伝」(1842)という浄土真宗の信者の伝記に載るという。天文22年(1553)3月10日、京都の公家三条西公条は、信貴山から八尾木の金剛蓮華寺に詣で、村人からここ八尾というところは鶯の名所で、普通12枚重ねの尾がここは8枚重ねで優れているよしを聞いた。(吉野詣記)。 この金剛蓮華寺は、善立寺の付近、小字の地名に大門、堂の前、婆々泣(ばばなき)、焼垣内(やきかいと)などがあり、この付近にあったのではないかと考えられている。 【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室・八尾市郷土文化研究会、1998年)より抜粋】
墓地の入口の六地蔵は古風である。その右端の一体は、温和な表情、丁寧な彫りで、均整がとれた地蔵である。像の左右に銘文がある。□□岳大菩薩妙□□尼菩提 天正三亥年宗清禅定□菩提深寛大法妙菩薩 二月三日 天正3年(1575)の造立である。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室・八尾市郷土文化研究会、1998年)より抜粋
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