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神社・仏閣

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鳥居

くすもとじんじゃ(にちらじ)
樟本神社(日羅寺)

この地は、物部氏の住地であり、この社はその祖神をまつったものである。北木本と木本に同名の二社があり、延喜式神名帳には樟本神社三座と記されている。守屋が聖徳太子の軍を防ぐためこのあたりに「稲城」を設けたとき、城中に榎木があったので、これを「榎木城」といい、村の名も「榎木村」といったが、のち「木本」となったと伝える。境内には黄檗宗日羅寺がある。薬師如来を本尊とする。日羅は百済へ渡り重く用いられた。敏達天皇は任那滅亡後、日羅を呼びもどし、百済の政情をたずねたところ、「兵事よりも、百姓保護に努め、国力を充実して、百済を討つべし」と説いた。このため同行して来朝していた百済使臣のために暗殺された。厨子は、延宝八年(一六八〇)平野の豪族末吉勘兵衛利長の寄進によるという。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

本殿

すみよしじんじゃ
住吉神社

当神社は住吉三紳を祀る村社であり、遠く延享年間(1740年代)の昔より村の守護神であり氏神様でした【出典:『寄進名簿石板』より】

本殿

えこうじ
恵光寺

大徳寺と号し真宗西本願寺末である。寺院の西南の地は字城土居と呼ばれ萱振城の跡と伝えられる。南北朝時代から室町時代にかけてこの附近一帯はたえず戦場となり荒廃したが文明二年(一四七〇)蓮如上人が河内布教のあとその子蓮淳を開基としてここに恵光寺を建立し、萓振寺内町を形成した。南に念仏橋があり、帰依する者も多く河内若江二郡五十二ヵ寺の触頭(ふれがしら)をつとめ萓振御坊(柳の御坊)とも呼ばれる由緒深い寺院である。出典『史跡の道・説明石板』八尾郷土文化推進協議会・八尾市教育委員会、1987年】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります

本堂

やないだ
矢無田地蔵尊

むかし、この付近には矢無田村があったので、その名が残っている。 
 花崗岩製。高さ一〇四センチメートル、巾五十二センチメートルの舟形光背をつくり、像高七十六センチメートル、巾二十六センチメートル、厚さ八センチメートルの地蔵立像を陽刻している。
 肩の線から上は折損しているので別石で後補している。
右手の錫杖の欠損している先は蓮華花となっている。
 地蔵と観音の両方のご利益を願ったかどうかは分からない。
 伝承によれば、この石仏は大阪城構築のときの積残し石に仏像が彫られていたので持ち帰り祀ったといわれるものである。
【出典:『八尾の石仏』八尾市教育委員会、谷野浩 1987年】

鳥居

やおじんじゃ
八尾神社

祭神は宇麻志麻治命で延喜式内社である。この地を本拠とした物部氏の一族、栗栖連がその祖神を祀ったものであろう。古くから西郷・木戸両村の氏神で明治四十一年(一九〇八)に八尾神社と改めた。八尾は、古くは矢尾・矢生・箭尾とも書かれ、物部氏の一族で矢作りに従事した「矢作部」がいたといわれ、また尾先が八枚に分かれた鶯の名所であったことから地名となったとも伝えられる。社殿の横には「矢尾城址」碑がある。 【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

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