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石板

とうごういせき
東郷遺跡

東郷遺跡は古大和川が形成した河内平野沖積地の中央部に位置し 弥生時代から平安時代にかけて繁栄した集落遺跡である。 この遺跡では駅前開発に伴う発掘調査により竪穴式住居跡・掘立柱建物跡をはじめ 井戸・溝・祭祀跡などの遺溝が検出され、この遺跡が周辺集落の中心に位置していたことが察せられる。 また古墳時代の遺物の中には古代吉備国や山陰地方などの遠隔地より運ばれてきた土器があり、古大和川を利用して交易が盛んに行われていたことがわかる。【出典『史跡の道・説明石板』八尾市・八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

とうさつちゅうそせき(にしごおりはいじ)
塔刹柱礎石(西郡廃寺)

西郡天神社境内にあり、本来は神社より北方の字「八間堂」で見つかったといわれており、塔の中心となった礎石(そせき)です。
 この辺りを居住地とした錦織連(にしごおりのむらじ)に関係する寺院があったと考えられます。
 高さ60㎝、縦120㎝、横160㎝の自然石の中央に、直径67㎝、深さ37㎝の柱穴があり、その中央に直径21㎝、深さ18㎝の舎利孔(しゃりこう)があいています。
[大阪府指定文化財:昭和49年3月29日指定]

銅鐸出土地

どうたくしゅつどち(あんようじきんぼう)
銅鐸出土地(安養寺近傍)

この地は恩智字向谷といい、本寺裏山の通稱垣内山のすぐ裏手の山裾から大正十年(一九二一)風雨のため山崩れが生じその赤土露出部より流水紋銅鐸が発見された。 流水紋様は弥生時代前期から中期にかけて近畿を中心に流行した流水紋土器に見られ、この鐸もその影響を受け作られたものであろう。 銅鐸は現在東京博物館にありその拓本が当寺にある。安養寺は浄土宗で本尊は阿弥陀如来である。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

桃林堂板倉家住宅

とうりんどう いたくらけじゅうたく
桃林堂 板倉家住宅

平成11年7月に国登録有形文化財になりました。市内で最も古い民家の一つです。代々、河内木綿の問屋を営んだ旧家で、大正期に現在の板倉家が移住し、当屋敷で菓子業を始めて、今日に至っています。大阪や奈良にかつて分布していた大和棟の間口9間半、奥行4間の大型の民家で、切妻造の茅葺屋根に、庇は本瓦葺です。道路に面する建物の外観は、江戸時代(18世紀前半)の町家の景観を残す貴重な建物です。 【出典:『ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会)】
[国指定文化財:平成11年7月指定]

*説明には一部現状と異なる場合があります。

伴林光平墓

ともばやしみつひらのはか
伴林光平墓

光平は林に生まれ、早くから国学を学び、江戸の伴信友に師事した、弘化二(一八四五)年教恩寺の住職となり十六年間住んだが、仏事勤行よりも国典を講じ、和歌を教えまた御陵の調査に専念し、大阪、河内、大和に門人多く書画をよくした。 文久二(一八六三)年、天誅組の旗上に参加、のち捕えられて京都六角で処刑された。 生前大和、大阪の往復のさい、この地北方の十三街道を通っており大正三年光平五十年忌にあたり、河内の有志がこの墓をたてた。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1981年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

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