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向山古墳全景

むかいやまこふんとむかいやまがようあと
向山古墳と向山瓦窯跡

古墳時代の前期に属し、独立丘陵を利用して設けられた西向きの前方後円墳である。墳丘は早くから開墾されて植木畑となり、後円部は一部が採土されている。後円部南側の池畔に平安時代末期の窯跡があり、いまも窯の一部が遺っている。ここで焼かれた瓦は宇治の平等院、京都の醍醐寺をはじめ近畿各地に運ばれている。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

門前

めいえんじ
明圓寺

明圓寺は淡海山と号し浄土真宗西本願寺末にして阿弥陀仏を本尊とする。建久三年(一一九二年)源三位佐々木秀義の四男である佐々木高綱の開基である。当時は、成法寺村にあり真言宗に属した 天文二年(一五三三年)八世住職佐々木了秀が当所に移転し 天文十年浄土真宗に転じる 『淡海山』は 佐々木家が近江の豪族であったことから『近江』と言う名に由来するものである。【出典:『淡海山明圓寺 開基の由来』説明板】

目ナシ地蔵

めなしじぞう
目ナシ地蔵

街道交点の東に恩智神社石鳥居があり、そのすぐ東に自然石のままの「目ナシ地蔵」がある。一説に恩智城の見付石といわれている。今はここに地蔵としてまつられている。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)を参考】

正面

もののべのもりやふん
物部守屋墳

守屋大連を葬ったところと伝えられ「河内名所図会」には、塚状の丘の上に一本松のある姿が記されている。明治のはじめ、堺県知事小河一敏が、ここに守屋顕彰の碑と石灯籠を建てた。昭和十二年守屋の千三百五十年祭には日本書記の一節を刻し、裏面に追悼文をきざんだ碑を建て、右側に石灯籠を献じた。墳の前は、旧奈良街道ですなわち国道二十五号線がある。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

説明板

もりもとしちろべえきゅうたくあと
森本七郎兵衛旧宅跡

現在の大阪東信用金庫本店の敷地は、八尾寺内町を建設した森本七郎兵衛貞次(もりもとしちろべえさだつぐ)(行誓居士)の旧宅跡でした。森本は、もともと久宝寺寺内町の年寄[としより]でしたが、慶長(けいちょう)11年(1606)11月11日に仲間16名とともに代官の不法を訴えて立ち上がりました。しかし、徳川幕府は、代官らの肩を持ちました。一方、森本たちに対しては、新しい町づくりを許可します。これが八尾寺内町です。 八尾寺内町は、新しくつくられた真宗大谷派(東本願寺派)の八尾別院大信寺(やおべついんだいしんじ)を中心に町が整備されました。八尾寺内町は在郷町(ざいごうまち)として発展し、現在の八尾市の基盤づくりに貢献しました。 【出典:『史跡の道・ステンレス説明板』(八尾市教育委員会)】

*説明には一部現状と異なる場合があります。

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