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住友会所跡 この地は大和川付替後、宝永五年(1708年)玉串川河川敷に生まれた山本新田を経営管理した会所跡である。 享保八年(1723年)より住友氏が所有し、その後約二百二十年間を経て昭和十五年(1940年)に至り山本八幡宮更に八尾市に寄贈され現在に至った。この間明治六年(1873年)山本小学校の前身、河内第四一番小学もここに創設され、常に河内山本発展の原点であった。【出典・不明】
山本新田について
この地は、大和川付替え後、宝永五年(1708年)に玉串川河川敷に帯状に開かれた山本新田のあつたところです。山本の地名の由来は、この新田開発を請け負った泉州箱作村の山中善兵衛とその子庄兵衛、および協力者の大阪平野の本山(加賀屋)弥衛門重英の名前の一字ずつをとって名付けられたといわれています。 その後享保十三年(1728年)に、この地は加賀屋から大阪長堀の泉屋吉衛門(住友)に移り、同氏は現在の近鉄大阪線の延伸とともに始められた住宅開発によって分譲されるまでの約200年間、この地を所有していました。
ここから東南約300m の距離にある市立労働会館は、この新田を経営管理した住友会所の置かれていたところで、同所には現在の山本小学校の前身である河内第四十一番小学も設けられていました。 市立労働会館の敷地内には記念碑も設置されています。【出典・不明)
三好長慶は戦国武将で細川晴元の内衆として活躍。永禄三年畠山高政を追放し河内国の実権を握って畿内を制圧したが永禄七年(一五六四)病没、真観寺で葬儀が行われた。長慶の甥義継は永禄六年三好家の家督となるが天正元年(一五七三)織田信長に攻められ自刃。境内の二基の宝篋印塔の基礎部は返花式で和泉砂岩を用いる。銘には各々の法名と没年月日が刻まれ三好系図、鹿苑日録、讀史備要等の資料から両者の墓と確定できる。 三好長慶墓銘 永禄七甲子 聚光院殿大禅定門 七月初四日 三好義継墓銘 天正元載癸酉 般若院殿大禅定門 十一月十六日【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、1998年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
「平野川近辺の遺跡」について:古代人にとって水は重要なものであったので、多くの集落が川沿いに形成された。平野川沿いにも縄文時代晩期(約2500年前)の生活痕跡が確認される。弥生時代(2300年前)になると亀井と田井中に人々が集住し、数条の溝で囲まれた環濠集落が出現するようになる。古墳時代初頭(約1850年前)になると中田を中心とする集落が誕生するが、これは大和へ通じる古大和川の水運を利用する港としての性格をもっていたとする説もある。この頃平野川沿いでは木の本に集落が形成され、中期(1600~1500年前)には出土遺物から渡来人との関係が指摘されている。また、亀井、東弓削や中田では地中に埋没した古墳がみつかっており、かつて八尾にも多くの古墳があったことがうかがわれる。奈良時代(約1250年前)には称徳(しょうとく)天皇と弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が河内を訪れ、平城京に対する西の京として都市計画がなされたが、それは中田から東弓削周辺であったと考えられる。鎌倉時代以降、人々は村を作り耕作地を広げていくが、老原や太子堂でそうした遺構が良好に残っている。それは、近年まで残っていた農村の原風景といえるものであった。【出典:『ステンレス製説明石柱』】
①当山正式寺号は紫雲山来迎院光明寺といい、1691年(元禄4年)秀山和尚の中興と伝える。阿弥陀如来を本尊とする融通念仏宗のお寺で、河内西国本尊の十一面観音は、霊験いちじるしく往古より、人々の厚い信仰を集めている。【『紫雲山 光明寺』より抜粋】
②融通念仏宗の光明寺の山門入り口の地蔵堂に、総高108㎝、幅73㎝、の舟形光背に、像高78㎝の地蔵立像が安置されている。室町時代末期のものであろう。名号板碑は、片麻岩製。頂部のとがった高さ180㎝のもの。中央に南無阿弥陀仏の六字名号と天正12年10月15日の紀年銘があり、その下に多数の法名が刻まれている。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)より抜粋】
③境内に建つ「中高安(なかたかやす)小学校発祥の地」の石碑。1872年(明治5年)小学校教育が始まったとき、この地区では光明寺が学舎として選ばれている。歴代の住職が漢学、儒学を教えるなど、地域の文教とかかわりが深い。【『紫雲山 光明寺より抜粋】
明圓寺は淡海山と号し浄土真宗西本願寺末にして阿弥陀仏を本尊とする。建久三年(一一九二年)源三位佐々木秀義の四男である佐々木高綱の開基である。当時は、成法寺村にあり真言宗に属した 天文二年(一五三三年)八世住職佐々木了秀が当所に移転し 天文十年浄土真宗に転じる 『淡海山』は 佐々木家が近江の豪族であったことから『近江』と言う名に由来するものである。【出典:『淡海山明圓寺 開基の由来』説明板】
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