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奈良街道(ならかいどう)から田井中村に分岐する角の、西南の田んぼの中にあります。高さ1m、周囲5m四方の塚状の上に小さな祠がまつってあり、俗に五条宮と呼ばれています。 付近から奈良時代の瓦が発見されており、五条宮寺と称した寺の跡と伝えられています。また、地名から老原廃寺(おいばらはいじ)ともいいます。写真は、昭和40年代頃の「五条宮址」のようすです。【出典:『八尾市文化財情システム』より】
承知三(八三六)年、僧壱演がここに地蔵菩薩を安置して堂宇を設けたという。 本堂の南側に小祠があり、石地蔵の前に二つのつぼがある、こんこんと清水がわいていて、俗に「弘法水」という弘法大使が山麓から急坂を登って、このすぐ上の十三峠を越える旅人のために祈願して得た霊水という。 飲料水として、また脚気などの諸病にも効験あるといわれ参詣者がたえない この地は桜の名所として名高い。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1981年)】
※石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
※現在は生水は飲めません。
像容端正、衣文の線はなだらかで、磨滅がはなはだしい。右側に「正安三年二月八日大施主」とあり、市内では第二に古い石仏である。大阪夏の陣のとき、若江合戦で大阪方の吉田内匠が、この地蔵堂の陰から槍をもってとび出し、東軍の藤堂式部をおそったが、かえって討死したという。またこの地からは、古墳時代前期の方形墳が発見されている【出典『史跡の道・説明石板』八尾市・八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
“麟角堂創建遺址”の碑があります。戦国時代久宝寺城主渋川満貞の創建といわれ、堀川屋敷に学者を招き、講筵(こうえん)を設けたことに始まります。天正3年(1575)安井定重これを復興し、堺の学者今村道和を招いて、孔子像をまつり、漢籍の講義がありました。江戸時代には伊藤仁斎や東涯も招かれて講筵を開きました。大正2年安田覚三郎再び復興し、西村天因を招いて開講、同11年には私立学舎の認可を受けて漢学の講義を開いたこともありました。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光著・八尾市市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会1998年)より抜粋】
寺内町北西の出入り口にある。地蔵堂は宝形造りの立派なものである。歯痛に霊験あると云う。像は高さ30cm、幅25cmの舟形光背に像高25cmの坐像である。【出典:八尾市史紀要第10号『八尾の石仏』(谷野浩著・八尾市教育委員会文化財室1987年)より抜粋】