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石板付近

ひがしこうやかいどう(かいちいちりづか)
東高野街道(垣内一里塚)

俗に京街道、高野道といい、伝えによると白河法皇が弘法大師三〇〇年遠忌に参拝のとき、河内石川の安助上人が開いたという。京都と高野山を結ぶ参拝路で、平安時代から鎌倉時代にかけては歴代天皇、諸公家たちが往来し、南北朝時代には京都と南朝方軍勢の出合い道であり、戦国時代には畠山一族、三好一族などの合戦の通路となった。この垣内一里塚は、その里程をはかるもので、数年前までは善根寺、四条、楽音寺にもあったが、いまはここだけである。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

天王の森

てんのうのもり
天王の森

天王の森:恩智神社の旧社地でお祭りの時のお旅所となる。天王の森というが、現在はほとんどが広場となっている。広場中央には境外末社の八坂社(祇園社)の小さな祠がある。祇園社の神は明治以前は牛頭天王と言った。天王の森の名は、この牛頭天王に由来すると思われる。神社では、織田信長の時に牛頭天王を祀ったとするが、「恩智社代々言伝書」などからみると、中世の神仏混淆の時代に恩智の一の宮の祭神として牛頭天王を祀った時期があったものと思われる。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】

垣内共同墓地

かいちきょうどうぼち
垣内共同墓地

垣内、教興寺、黒谷、郡川、服部川、山畑地区の共同墓地で、行基のつくった河内七墓の一つである。戦国時代末期の小五輪塔や、江戸時代前期の年号をもつ名号板碑などが多く残っている。墓域の東側の高台には、高さ二メートルを越える大きな五輪塔が建立されている。空・風・地輪は後世のものであるが、火輪は軒反りも力強く鎌倉様式で、水輪も大きく重厚なものである。全体的にもつりあいがよく、整然とした五輪塔で、市内でも代表的な石塔といえる。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、甲斐房之助 書)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

十三峠付近からの眺望

じゅうさんとうげ
十三峠

①大阪玉造から深江、高井田を経て、神立から大和の龍田に越える峠をいう。文久3年(1863)8月、伴林光平が、大和天誅組の旗上げの時、大阪玉造に和歌の教授に来ていて、十六日の夜半その通知をうけて、直ちに脚気の重い足を引きずるようにして、急ぎこの十三峠を越えて、大和畝傍にかけつけたのである。大阪玉造と大和龍田方面とを結ぶ最も重要な街道筋の峠に当る所である。明和2年の峠の地蔵と天理教小寒さんの碑がある。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】 

②十三峠の石仏:十三街道は、八尾市神立と平群郡を結ぶ道筋で、近世には大坂から伊勢参宮のルートとしても賑わった。その峠には旅人安全を願って福貴畑の村人により立てられた地蔵石仏(明治2年:1765)があり、街道の道標(元禄2年:1689)や松尾寺への道しるべも並んでいる。峠の北側には名称の起こりとなった十三塚があり、重要文化財に指定されている。このルートは「業平道」とも呼ばれ、平安初期の歌人で六歌仙の一人、在原業平が天理より神立の女性の元に通った道ともいわれる。平群町では、中部コース「十三街道と業平ロマンの道」の愛称で案内板を整備している。【出典:『木製説明板』(平群町福貴畑)】 

五輪等

こうだちきょうどうぼち
神立共同墓地

河内七墓の1つで、五力村(神立・水越・大竹・大窪・千塚)の墓地として管理されている。墓石の中のひときわ大きい五輪塔は、総高2mある。各輪に梵字を刻み、地輪に、正和2年(1645)11月19日、大窪村の岩田氏の墓である大字がある。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】

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