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神社・仏閣

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こまばしじそう
許麻橋地蔵

許麻神社鳥居前の辻堂内にあるこの地蔵は、亡父の追善供養のために造顕されたもので、像の左右に次の銘文がある。爲景 慧 禅定門追善 天文廿一壬子四月 日孝子敬白 いまは安産地蔵といわれている。像は中央部で折損しているが、後世つぎ固められている。材質は花崗岩で、高さ六二センチメートルである。 【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

正面

もののべのもりやふん
物部守屋墳

守屋大連を葬ったところと伝えられ「河内名所図会」には、塚状の丘の上に一本松のある姿が記されている。明治のはじめ、堺県知事小河一敏が、ここに守屋顕彰の碑と石灯籠を建てた。昭和十二年守屋の千三百五十年祭には日本書記の一節を刻し、裏面に追悼文をきざんだ碑を建て、右側に石灯籠を献じた。墳の前は、旧奈良街道ですなわち国道二十五号線がある。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

石板

かわちけんちょうあと
河内県庁跡

明治二年一月二十日、河内県役所が大阪市鈴木町に設置され、同年四月二十二日役所は当地大信寺(八尾御坊)へ移され、対面所が役所にあてられた。 しかし、この役所はわずか八カ月で堺県へ合併され、出張所として残されたが、同年九月七日廃止された。 なおこの地には、明治二十八年(一八九五)大阪府立第三尋常中学校(現八尾高等学校)が仮校舎として開校した。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】

*説明には一部現状と異なる場合があります。

灯籠

たまくしがわ
玉串川

宝永元年(一七〇四)大和川が付替えられたが、それまでは玉串川と長瀬川はもとの「大和川」であった。二俣で分流したこの川は、山本を通り、稲葉(東大阪市)で吉田川、菱江川に分かれ、吉田川は深野池、新開地に入り、再び菱江川と合流、森河内に至り長瀬川と合流し、大阪城付近で淀川へそそぐ。 大和川付け替え後は、多くの新田が生まれたが、そのうち「山本新田」は、宝永二年和泉の人で山中庄兵衛、本山重英により開墾された。いま山本八幡宮の境内東側、玉串川ぞいにある一対の燈篭にその銘がある。【出典『史跡の道・説明石板』八尾市・八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

鳥居

はくさんじんじゃ(おいはら)のほうきょういんとう
白山神社(老原)の宝篋院塔

老原の白山神社の神殿前石段の横にある。基礎石の上に初重軸部を置き、その上に三層分のみが古く、室町時代前期を下らないものといわれる。焼けた跡があり、戦国時代の戦火にかかったものであろう。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光著・八尾市市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会1998年)】より抜粋

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