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地蔵

たていしとうげのじぞう
立石峠の地蔵

立石峠道を上りつめたところ、道が二股になっている。この分かれ道のところに地蔵が立っている。総高120㎝、幅45㎝の舟形光背に像高73㎝の地蔵立像である。像の左右に銘文がある。右 しぎ山たつた道 為無縁法界 久安寺村市兵衛 左 まつのを山え 享保二十乙卯年四月吉日 右は信貴山、龍田への道、左は松尾山への道を示している。享保20年(1735)【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光著・八尾市市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会1998年)】より抜粋

灯籠

たまくしがわ
玉串川

宝永元年(一七〇四)大和川が付替えられたが、それまでは玉串川と長瀬川はもとの「大和川」であった。二俣で分流したこの川は、山本を通り、稲葉(東大阪市)で吉田川、菱江川に分かれ、吉田川は深野池、新開地に入り、再び菱江川と合流、森河内に至り長瀬川と合流し、大阪城付近で淀川へそそぐ。 大和川付け替え後は、多くの新田が生まれたが、そのうち「山本新田」は、宝永二年和泉の人で山中庄兵衛、本山重英により開墾された。いま山本八幡宮の境内東側、玉串川ぞいにある一対の燈篭にその銘がある。【出典『史跡の道・説明石板』八尾市・八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

玉櫛荘と福万寺遺跡

たまくしそうとふくまんじいせき
玉櫛荘と福万寺遺跡

福万寺、上之島一帯は条里割がよく残り、その境界は、高安郡条里と河内郡条里の境に位置しています。この付近は、玉櫛荘と呼ばれた摂関家の荘園跡です。その名称は、平安時代の藤原實資の日記である小右記に初めてみられます。鎌倉時代の藤原兼仲の日記である勧仲記(かんちゅうき)には、ここに住んでいた武士たちが、本所や周辺の寺社と対立するようになったことが記されています。昭和57年、上之島小学校の建設にあたり発掘調査を実施したところ、鎌倉時代の武士の屋敷跡や道路などの遺構が検出され、中国製磁器(じき)や鏃、刀、宋銭、硯(すずり)などが出土しました。【出典『史跡の道・説明石板』八尾郷土文化推進協議会・八尾市教育委員会、1986年】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

社殿

たまのおやじんじゃ
玉祖神社

式内社で玉祖明神とか、高安明神ともいう、 高安十一カ村の氏神で、和銅三(七一〇)年周防国から分霊を勧請したもので、祭神は櫛明玉命である、この地に玉造部の人人が住んでいたので、その祖神をまつったものであろう。 寺宝も多く、北条時政の制札(重文)男女神像(府、重、美)樟樹(府天然記念物)豊臣秀頼寄進の石灯篭などがある。 神社の北方を東西に十三街道が走り、大阪の玉造に通じ、玉祖、玉造りの地名からこの街道のもつ意義は大きい。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1981年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

鳥居

つぶくみじんじゃ
都夫久美神社

延喜式神名帳では小社に列せられており、古代の大豪族物部(もののべ)氏の祖神宇摩志摩治命(うましまじのみこと)を祭神とする。ツブクミという社名は、物部氏の一族積組連(つぶくみのむらじ)に由来する。(新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)による)近世頃には香森大明神と呼ばれ社地を中の森と言っていた。この神社の西方には弥生時代の集落址である水越遺跡が広がっており、その関連がうかがえる【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、甲斐房之助 書、1992年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

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