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石板

なかたいせき
中田遺跡

中田を中心に東は刑部、西は別宮、北は小阪合、南は八尾木の範囲にひろがる広大な集落遺跡である。 弥生時代後期から人々が住みはじめ、古墳時代には大集落に発展している。奈良時代は「西の京」造営と関係があるのか平安時代中期の頃までの遺構、遺物の埋蔵が見られない。鎌倉時代に入ると寺を中心として再び大集落が復活し、室町時代末期まで繁栄している。 中田遺跡の特徴の一つに古墳時代前期の頃「吉備国」から運ばれた土器が多量に出土していることである。これは国土統一期における河内国と吉備国との関係を物語る貴重な資料となっている。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

正面

じがんじ
慈願寺

福井山と号し、真宗東本願寺末。開基は親鸞聖人直弟二十四輩のうち第十三番信願房法心(俗名那須肥前守資材)といい、聖人の関東布教のさい帰依した。法心は下野国に慈願寺を建てたが後京都に上り、弘安三年(一二八〇)遺名により久宝寺村に来り慈願寺を建て、文明二年(一四七〇)蓮如上人久宝寺布教のさいは、久宝寺に顕証寺が設けられ東大阪の真宗弘布の中心となった。慶長一一年(一六〇六)東本願寺につき、森本行誓ら一七人衆と八尾に移り、院家として八尾御坊大信寺の役寺となった。親鸞聖人絵伝など寺宝が多い。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

鳥居

やおてんまんぐう
八尾天満宮

八尾寺内町の鎮守で、「八尾の天神さん」といわれる。祭神は天穂日命と菅原道真で、慶長年間に片桐且元が創建したといわれている。 中門は寺内町の木戸門を移建したものと伝えられ、また境内には寺内町開発者森本行誓の六代の孫房吉寄進の灯篭がある。近年は恵比須神をまつり、一月八日は例年「八日戎」としてにぎあう。  【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】

*説明には一部現状と異なる場合があります。

石板

ともばやしみつひらのひ
伴林光平の碑

この地は光平の住んでいた教恩寺の跡である。光平は林(道明寺)の尊光寺に生まれ、早くから国学を修め、弘化二年(一八四五)この教恩寺に住?として来り一六年間ここに住んだ。 光平は仏事勤行より国典の講義をしたり、和歌を教え、また御陵の調査に専念したが、のち天誅組に加わり、捕えられて京都で処刑された。玉祖神社の石段下に墓があるが、これは生前光平が大和、大阪を往復のさい、十三峠を通っていたので、五十年忌にあたり河内の有志が建てたものである。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

三十八神社入口

じょうりわりいこう(ふくまんじ)
条里割遺構(福万寺)

大化改新(六四五)のさいに行われた耕地の割り方である、耕地を東西、南北にそれぞれ六町四方に区画し、一辺を条、他の辺を里と名づけ、それを三十六等分し、その一つを一坪とした。一坪は一町歩にあたり、坪の数え方は、千鳥式と平行式があるが当地域では千鳥式である。この地福万寺や上ノ島には、今も味の一の坪、二の坪…という坪名が残っていて、古い条里制遺構の残る地として名高い。【出典『八尾市民教育委員会・八尾菊花ライオンズクラブ』史跡の道・説明石板】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

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