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高安出城址

たかやすでしろあと(しぎさんじょうでしろあと)
高安出城址(信貴山城出城址)

①高安山の山頂部の小字を出城という。松永弾正久秀の出城が築かれた所という。山頂部は大きく削平されていて、三つの部分に分かれる。本丸、二の丸、三の丸といわれる曲輪で、典型的な中世山城となっている。本丸の部分は高安山山頂に当たり、三角点がある。土塁が三方にめぐる。二の丸は四方を土塁が囲み、三の丸との間は深い空堀となっている。三の丸は二の丸の南にあり、かなり広い削平された曲輪で、北方に土塁がある。入口が東北と南東の隅にある。ところで本丸の部分は古くから高安烽跡といわれている。昭和57年2月、大阪府教育委員会は高安城範囲確認調査の一環として、ここを発掘した。その結果、僅かに土師器・須恵器が見つかったが、高安烽跡の遺構は確認できなかった。しかし、16世紀の建物2棟、鎧の草摺、甕などが出土した。これで中世末の山城があったことが遺物面でも確認された。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】②近鉄西信貴ケーブル「高安山」駅前に「高安山の史跡案内」がある」
高安山史蹟案内碑:高安山から信貴山への山道は緑の中のハイキングコースとして人気がある。一方、ここは、史跡も多く、史跡を見ながらハイキングをしてほしいと願って、昭和60年6月、この史蹟案内図ができた。碑面は三部からなる。左から高安出城、高安城倉庫址礎石群、信貴山城である。この順に歩くと、ハイキングと歴史散歩を楽しみながら自然と信貴山朝護孫子寺へ行けることになる。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】

高安城倉庫址礎石群 2号

たかやすじょうそうこあとそせきぐん
高安城倉庫址礎石群

昭和53年(1978)発見 奈良県平群町久安寺字金ヤ塚 奈良時代前期 西暦六六〇年、唐と新羅は連合して百済を攻め滅ぼした。救援を求められた斉明天皇や皇太子中大兄皇子は九州へ向かったが、天皇は九州で急死、百済へ向かった日本の水軍も白村江の戦いで唐の水軍に完敗した。この緊迫した状況のもと、天智天皇は六六七年、近江大津宮に遷都、そのいっぽう、ここ高安山に高安城を築いた。対馬の金田城、九州大宰府を守る大野城や基肄城、瀬戸内の屋島城などと並ぶ日本防衛のための大規模な古代山城である。この高安城を一三〇〇年たった今、高安城を探る会が倉庫跡礎石六棟分を発見、城の所在地を確認した。高安城には築城後、畿内の田税である穀と塩を蓄え、非常時に備えたが、六七二年の壬申の乱で倉庫は炎上、その後天武・持統天皇の時代に修築され、文武天皇の七〇一年に廃城となったと、『日本書紀』や『続日本紀』に見える。この倉庫は六棟の内の2号棟で、橿原考古学研究所が昭和五七年三月に発掘した。この時、礎石の下から平城京跡で発見されているものと同じ暗文入りの盤(大皿)や杯が多数出土した。この土器の年代から、これらの礎石は奈良時代前期、七二〇~七三〇年代のものと判明した。3号棟も昭和五八年三月に発掘され、同時期と判明した。ただ、ここでは礎石を取り巻く形に掘立柱列がめぐっているのが発見された。【出典:『高安城跡倉庫礎石群・ステンレス製説明板』(高安城を探る会、1996年)より抜粋】

楽山上人像

ぎょうざんしょうにんはか
楽山上人墓

楽山(ぎょうざん)上人は、江戸時代後期、木戸村(八尾市東本町)・清慶寺(融通念仏宗大念仏寺末)の住持であった人で、「八尾のお上人」とか「生き地蔵様」と呼ばれ、世人の尊崇を集めました。上人は、文化7年(1810年)、堺に生まれ、8歳で出家。20歳で清慶寺に来住し、荒れ果てた寺の復興に努めるかたわら、大和稗田(大和郡山市)の学僧・詮海上人に師事し、厳しい念仏求法の道に専心します。天保10年(1839年)、有名な楽山の大勧進が始まり、その念仏加持の力で幾多の霊験が示されると、清慶寺は念仏を授かろうとする人々で、門前市を成すほどであったということです。当時、寺内村(八尾市本町)に住んでいた『野史』の著者として名高い飯田忠彦も、上人に厚く帰依していたといわれています。弘化3年(1846年)、上人は請われて新清和門院(光格天皇皇后)の病を加持祈祷して治し、その折り賜わった品々は、今も清慶寺に寺宝として残されています。ところが、同じ年の11月、かねてより病弱であった上人は、37歳の若さで世を去ります。市役所南方の淨源寺墓地にある巨大な石地蔵は、楽山上人の墓であるといわれており、150余年を経た今も、多くの人々の信仰を集めています。【出典:『八尾市立図書館H.P 楽山上人』】

立柱

まんがんじぼちいたひ
万願寺墓地板碑

墓石群中,総高80cmの舟形光背の中に宝篋印塔形を薄肉彫している。塔身部の月輪の中に阿弥陀の梵字「キリーク」を彫っている。基礎部に銘文があり、天正元年(1573)9月8日の造立であることがわかる。【出典;八尾の史跡(棚橋利光著・八尾市市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会・1998年)

御祖神社跡

みおやじんじゃあと・おかげとうろう
御祖神社跡・おかげ灯籠

式内社御祖神社が明治41年2月まで鎮座していたが、同年2月10日郷社玉祖神社に合祀され、現地には昭和13年5月に建立された「式内御祖神社跡」という碑がのこされた。地元では山王の森と呼ばれている。これは江戸時代、大窪村の氏神を山王大権現社といったことによる。小字は比恵森という。おかげ灯籠は花崗岩の小型のタカ灯籠で、台座に“おかげ”と大きく陰刻されている。竿は角柱で、表面に“常夜燈”とあって、側面に“天保二辛卯三月建立”とある。天保2年村人たちの伊勢神宮へのおかげ参りの記念に建立されたもので、市内では唯一の記念物である。おかげ参りは、江戸時代の末に盛行し、殊にこの天保2年(1831)はその当たり年であった。庶民の間に流行し、“一生に一度はお伊勢参りを”ということが習慣となった。老若男女、貴賤貧富となく何十人と群集して参宮し、途中の参加者も加わって、時には何百人の群集となった。またこれらに伴ってぬけ参りも盛んに行われ、これらの人々に道筋の各家では色々の施し物をした。大窪の村人たちが、天保2年3月おかげ参りに参加して、その記念としてこの石灯籠を献じたものである。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】

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