本文へジャンプ

神社・仏閣

五十音順に並べ替える

時代で絞り込む:

【36件中 26~30を表示しています。全8ページ】 前ページへ 1 2 3 4 5 6 7 8 次ページへ

ガード

じょうとう(はんわ)かもつせんあと
城東(阪和)貨物線跡

城東貨物線は吹田市の吹田操作場から南下し放出(はなてん)に至る北線が昭和四年(一九二九)三月に、また放出―加美―竜華(りゅうげ)(現在のJR大和路線久宝寺付近)間の南線が昭和六年八月に、それぞれ貨物専用線として敷設された。その後、昭和十三年十月に竜華操作場が創設され、関西線、臨港線、和歌山線、城東貨物線からの貨物は、すべてここで仕分けされることとなった。一方、現在の八尾空港の前身にあたる大正飛行場が第二次大戦中に軍用飛行場となり、航空廠(こうくうしょう)が設置されたのにともない、竜華から加美・長吉を経て同廠に連絡する軍用鉄道線が敷設され、軍用機材を同飛行場へ輸送する役割を担った。沿線のお年寄りによると、田んぼの中に一直線に線路が光っていた。戦争が激しくなってくると、夜中に有蓋・無蓋の貨物列車が絶えず行き来するようになり、兵器や人を運搬していると思ったが、軍の機密を話すと拘束されるので、誰も知らないふりをしていたという。【出典:『平野区誌』(平野区誌編集委員会、平野区誌刊行委員会 平成十七年五月二十一日発行)】より抜粋   JR阪和貨物線廃線跡地を活用したまちづくり校区内の3箇所で市道と交差しているJR阪和貨物線(関西線八尾~杉本町)の鉄道事業が、平成21年3月末をもって廃止されました。総延長11.3kmのうち、八尾市域分としては約500mの区間となります。【出典:『竹渕小学校区地域レポート』(平成21年6月 コミュニティ推進スタッフ2009年)】より抜粋

長慶、義継の墓

みよしながよしのはか・みよしよしつぐのはか
三好長慶墓・三好義継墓

三好長慶は戦国武将で細川晴元の内衆として活躍。永禄三年畠山高政を追放し河内国の実権を握って畿内を制圧したが永禄七年(一五六四)病没、真観寺で葬儀が行われた。長慶の甥義継は永禄六年三好家の家督となるが天正元年(一五七三)織田信長に攻められ自刃。境内の二基の宝篋印塔の基礎部は返花式で和泉砂岩を用いる。銘には各々の法名と没年月日が刻まれ三好系図、鹿苑日録、讀史備要等の資料から両者の墓と確定できる。 三好長慶墓銘 永禄七甲子 聚光院殿大禅定門 七月初四日 三好義継墓銘 天正元載癸酉  般若院殿大禅定門 十一月十六日【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、1998年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

板碑と古墓

さどうきつねやま(さどうしょうがつかあと)
佐堂狐山(佐堂生が塚跡)

杵築神社の後方東側にあった小さな塚状の土地をいった。俗称を狐山、正式には佐堂生が塚という。宮寺の土壇の跡と考えられる。開発に伴い現在はその跡地に「佐堂生が塚跡」の石碑が立つ。もとここに,元亀元年(1570)の道智墓碑があった。今この墓碑は、佐堂墓地に移されて保存されている。これは舟形の花崗岩に、五輪塔を陽刻し各輪に梵字を記し、地輪に元亀元年・道智・八月廿八日の銘がある。【出典「八尾の史跡」棚橋利光著・八尾市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会編集】

説明板

きゅうやまとがわのていぼうあと
旧大和川の堤防跡

御野縣主神社の境内には、社殿の西側に長さ63mにわたって、旧大和川の堤防跡が残っています。 江戸時代、宝永(ほうえい)元年(1704年)の付け替え前の大和川の川筋は、二俣付近で、二つに分かれており、その分流の一つが現在の玉串川です。 現在の玉串川の川幅は、神社の西側付近で5m位ですが、付け替え前の川幅は200m近くもありました。この堤防跡は旧玉串川筋の東側の堤防の跡になります。江戸時代の初めには、川底がまわりの土地より高い天井川(てんじょうがわ)となり、たびたび堤防が切れて、洪水の被害をもたらすようになっていました。このため今米村(いまごめむら)(現東大阪市)の庄屋、中甚兵衛(なかじんべえ)らの尽力により宝永元年に付け替えが行われ、現在の川筋となりました。御野縣主神社の境内に残る旧大和川の堤防跡は、付け替え前の大和川の様子をしのぶ貴重な史跡になっています。また、堤防跡の南東側には、上水道の整備が行われる以前に、天井川となった玉串川の湧き水を簡易水道(かんいすいどう)として利用するため、上之島の人々が設けた親井戸(おやいど)の跡も残っています。【出典:『ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会 2004年)】

*説明には一部現状と異なる場合があります。

石板

きゅうほうじじょうし
久宝寺城址

久宝寺城は室町幕府に仕えた渋川満貞の居城と云われる。満貞は畠山満基の長子で、渋川郡を領したことから渋川と称した。麟角堂を創建し又毎年七月十四・五日は城内で精霊祭を催し、領民は五日間盆踊りをしたと言う。満貞の嫡子の光重は播州安井郷を受領、安井と改姓し、定重の時に織田信長に仕えたが、天正五年、光佐顕如上人の本願寺兵に攻められ、城は陥落した。城址は寺内町西北の出隅に「城土居」の地名を残している。 「久寶寺村誌」より  【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、角谷彰彦 文、乾房子 書、1996年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

【36件中 26~30を表示しています。全8ページ】 前ページへ 1 2 3 4 5 6 7 8 次ページへ

このページのトップへ