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神社・仏閣

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説明板

かぶらやづか
鏑矢塚

用明二年(587)に厩戸皇子(うまやどのおおじ)(聖徳太子)をはじめとする皇子達と蘇我馬子(そがのうまこ)らは、渋河の地で物部守屋(もののべのもりや)の軍勢と戦います。稲城(いなき)を築き、榎木の上から弓を放つ守屋に苦戦した皇子らは三度退却しますが、四天王に祈願すると、迹見赤檮(とみのいらい)の放った矢が守屋を討ち、皇子と馬子らは勝利したと『日本書紀』に記されています。大聖勝軍寺(たいせいしょうぐんじ)の周辺にはそうした史跡が残されており、鏑矢塚は、迹見赤檮が守屋を射た矢を埋めたと『大聖勝軍寺略縁起』(1455)は伝えています。鏑矢とは、先端が植物の「かぶら」のような形をしている矢のことです。『日本書紀』にはみられませんが、太子信仰や八尾の歴史を考えるうえで重要です。【出典:『ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会、2010年)】

*説明には一部現状と異なる場合があります。

神宮寺小太郎の墓

じんぐうじこたろうつか
神宮寺小太郎塚

神宮寺小太郎は当地の豪族で、神宮寺城を構え恩智左近満一とともに楠木正成に属し、その八臣の一人である。 正成湊川で戦死後はその子正行に従い四條畷に出陣して討死し、そのとき北朝方により神宮寺城も落ちた。 塚はもと古墳で明治末年に所有者により発掘され破壊されたという。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

本堂

きたむき おねがいじぞうそん
北向き お願い地蔵尊

願文 一樹の陰に宿り一河の流れを汲むも皆是れ他生の縁とか申す通り私共東山新町九丁目住民はお互その生地職域を異にし乍らも同じく聖徳太子ゆかりのこの地に水住の居を定めて日々親しいおつきあいを致して居りますことは想えば誠に浅からぬ因縁かと存じます 今後益々その親睦を深めより一層相互の融和をはかるよすがとして此の度町内に清浄の地を選び地蔵菩薩の御尊像を安置し奉りて町内各家の家内安全厄災消除家運隆昌子孫長久等の諸願をこめて永くお祠り致すことと相成りました惟いまするに「佛身は法界に充満して普ねく一切群生の前に現じ縁に隨い感に赴いてあまねからずと云うことなし」との佛説を固く心に念じてこれより以後私共町民は老若男女幼な子に至るまで毎日交々に香華燈燭絶することなく朝な夕な合掌禮拜敬虔なお祈りを捧げ続けることにより必ずや菩薩権化の御冥助あらたかなるものあることと深く信じるもので御座います   茲に本月本日吉日を卜してその開眼のおつとめを相営みまするに當り謹んで御名を「北向きお願い地蔵尊」と稱え奉り恭しく御真前に茶菓等の淨供をお供えして懇ろに御回向供養を致すもので御座います。伏して願くばこの功徳勝因によりまして地蔵菩薩様何卆私共町民のこの眞情を御照覧哀愍され給うて永くこの座に鎭り下され六道能化の慈悲の御手を私共の上に差しのべられますようお祈り致すと共に町内安穏町民各々の諸願慈く成就下されますよう専心お願い申し上げます 【出典:『北向きお願い地蔵尊 願文』 (八尾市東山本新町9丁目住民一同、1977年)】

説明板

きゅうほうじじないまち
久宝寺寺内町

久宝寺は、戦国時代に寺内町として建設された、450年以上の歴史を持つまちです。蓮如上人は、文明2年(1470年)の河内布教の際、「帰する者市の如し」といわれるほど帰衣する人が多かったので、この地に西証寺を建立しました。西証寺は後に顕証寺と寺号を改め、天文10年(1541年)頃にこの御坊を中心として久宝寺寺内町が誕生しました。ここには多くの真宗門徒が集まって自治を行い、また商工業者も集まって経済的に繁栄していました。久宝寺寺内町には江戸時代の絵画が残っており、昔のまちの構成を知ることができます。寺内町は環濠と土居で囲まれ、まちへの出入りは6か所の木戸口から行われており、内部は東西に7本、南北に6本の道路が碁盤目状に走っていました。このような町割りは現在でもほぼ当時のまま残っており、貴重な歴史的遺産として注目されています。また江戸時代から現代に至るまでのさまざまな様式の町家がみられ、この中に社寺や土蔵、あるいは道標、地蔵堂、水路などが通りのアクセントとなってつくられる久宝寺の町並みは、450年以上の歴史を今に伝える生きた歴史の教科書といえます。  【出典:『久宝寺寺内町ご案内 まちつややか 説明板』 (八尾市)】

石碑

おんぢじょうし
恩智城址

恩智城は中世この地の豪族恩智左近満一が築いた。自然の高地を利用した城郭で高安連峰との間に堀をめくらせ前方に大阪平野を一望のもとにおさめた。 堀の中にかつては小島があったがそれはむかしの一の丸で現在の城址は二の丸の址という。 正平三年(一三四八)四條畷の戦いで楠木正行が戦死し恩智城も落ちた。 学制領布のときここに小学校が新築され、今では桜の名所として知られている。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾教育委員会、1980年)】 
*恩智左近の出身地などについてはいくつかの説があります。

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

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