本文へジャンプ

神社・仏閣

五十音順に並べ替える

時代で絞り込む:

【209件中 126~130を表示しています。全42ページ】 前ページへ 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 次ページへ

二室塚古墳

たかやすこふんぐん にしつづかこふん
高安古墳群 二室塚古墳

二室塚古墳は、300基近い古墳からなる高安古墳群の服部川に所在する、6世紀後半頃に造られた横穴式石室墳です。石室の構造は、右片袖式(みぎかたそでしき)の玄室を2つ連結したもので、全国的に類例のないものです。複数の石室を有する複室構造(ふくしきこうぞう)といわれる石室は、九州を中心に分布していますが、二室塚古墳の石室はこれと異なり、畿内で典型的にみられる片袖式石室を連結した構造で、このような石室は、同じ高安古墳群の郡川にある交互二室塚古墳(こうごにしつづかこふん)(右片袖式に左片袖式の石室を連結)にしかありません。二室塚古墳の石室は、当時の政権の中心であった畿内において、独自の複室構造として造られたものであり、畿内の横穴式石室を考える上で大変貴重なものです。また、二室塚古墳は、日本近代考古学の草創期である明治時代に、「日本考古学の父」といわれる英国人ウィリアム・ガウランドが、米国人ロマイン・ヒッチコックとともに、ガラス乾板による写真撮影を行い、「双室ドルメン」として、いち早く海外に紹介した古墳として貴重な学史を有する古墳です。ガウランドは、大阪造幣寮(おおさかぞうへいりょう)(現在の造幣局)の技術指導のため、わが国に招かれたお雇い外国人でした。彼は、日本各地の古墳の調査研究を行い、その業績は古墳の科学的研究の基礎を築いたものであり、「日本考古学の父」といわれています。ヒッチコックもまた、お雇い外国人であり、卓越した写真技術を持ち、日本の古代研究等にも大きな業績を残しています。彼らは、明治20~21年(1887~88年)に、高安古墳群を訪れたと考えられており、その写真には、当時の二室塚古墳石室の姿が明瞭に残されています。【出典:『史跡の道・ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会、2007年)】

入口

たかやすこふんぐん かいざんづかこふん・こうりがわ
高安古墳群 開山塚古墳・郡川2,3,3-B,4号墳

法蔵寺境内の山側の尾根には、開山塚古墳(郡川1号墳)はじめとする6世紀後半頃を中心に造られた横穴式石室墳が残されています。江戸時代に著された「河内名所図会」の法蔵寺境内の様子を描いた部分にもその姿が描かれています。これらは、八尾市の生駒西麓に分布する250基近い古墳からなる高安古墳群の一支群です。開山塚古墳という古墳の名称は、江戸時代に曹洞宗法蔵寺を開いた好山和尚の廟塔である清涼塔が、古墳の背後にあることから、名付けられたものです。石室の全長は、13mを測り、高安古墳群中、最大の両袖式の横穴式石室墳です。また、大森貝塚を発見した米国人の博物学者、エドワード・S・モースが、明治12年(1879年)に精密な図の作成を行うなどの調査を行い、欧米の学界にいち早く紹介した古墳でもあり、考古学の学史上も重要な役割を果たした古墳です。郡川2号墳、郡川3号墳、郡川3-B号墳、郡川4号墳は、開山塚古墳に比べると、小規模な横穴式古墳です。郡川2号墳は片袖式の、郡川3号墳は両袖式の横穴式古墳です。郡川3-B号墳は、郡川3号墳の墳丘裾で確認した無袖式の横穴式石室墳で、7世紀の初め頃のものです。郡川4号墳は、石室の全長が8m前後と考えられる横穴式石室墳です。開山塚古墳をはじめとするこれらの古墳は、高安古墳群の一支群のありかたを現代に伝える貴重な文化財として、平成16年度と平成17年度に八尾市指定史跡になりました。【出典:『史跡の道・ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会、2006年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

心合寺山古墳全景

しおんじやまこふん
心合寺山古墳

心合寺山古墳は、5世紀前半につくられた中河内最大の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)で、当時この地域一帯を治めた豪族の墓と考えられます。墳丘長は約160mあり、史跡指定範囲の総面積は約30,000㎡です。墳丘は三段築成で、くびれ部西側に「造り出し(つくりだし)」があり、平坦面には円筒埴輪(えんとうはにわ)や朝顔型埴輪(あさがおがたはにわ)などが立て並べられ、斜面には葺石(ふきいし)が葺かれていました。埋葬施設は、後円部に3つの「粘土槨(ねんどかく)」、前方部の「方形壇(ほうけいだん)」の下に木棺がありました。後円部の粘土槨のひとつである西槨から、甲冑(かっちゅう)、き鳳鏡(ほうきょう)、刀剣類などの副葬品が出土しています。周辺には、西ノ山古墳や花岡山古墳など古墳時代前期から中期にかけての古墳が造営されており、心合寺山古墳を含むこれらを総称して「楽音寺(がくおんじ)・大竹(おおたけ)古墳群」と呼んでいます。【出典:『史跡の道・ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会、2005年)】

*説明には一部現状と異なる場合があります。

正門

らいおんじ
来恩寺

①当山の縁起は、現在の地に江戸中期より来福寺として小さなお堂があったところで、1906年(明治39年)に、現在地より東南200メートル生駒山系の中腹にあった恩覚寺と合併し、以来、来恩寺と称するようになった。来恩寺(融通念仏宗)としての歴史は100年足らずだが、来福寺(浄土宗)、恩覚寺(真言宗)の合併の名残として、本尊の観音菩薩像の脇にそれぞれ、阿弥陀菩薩と弘法大師像が安置されている。また、元の観音像は移転の際、傷みがひどく現在は本堂に安置されず、新しい観音像と観音画像を祀られている。【『一心寺来恩寺H.P』より抜粋】

②来恩寺前の街道すぐ西に、自然石のままの「目ナシ地蔵」がある。一説に恩智城の見付石といわれている。今はここに地蔵としてまつられている。また、その西(恩智街道・東高野街道交差点側)に恩智神社石鳥居がある。(【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)を参考】

正門

じょうらくじ
常楽寺

当寺の開基は不明であるが、南北朝の時代(14世紀中頃~末)には阿彌陀如来を本尊とする念仏聖の道場となっていたようである。元文年間(1532~54年)に観音菩薩の篤信者持兵衛なる者の寄進による十一面観世音菩薩は霊験あらたかで往昔より近在の人々の崇拝を集め、俗に川辺観音と呼ばれている。1689年(元禄2年)念誉上人により旧本堂が再建され、その後、融通念仏宗、平野の大念仏寺の末寺となり、現在に至っている。【『蓮台山 常楽寺』より抜粋】

【209件中 126~130を表示しています。全42ページ】 前ページへ 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 次ページへ

このページのトップへ