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石板付近

こうだちちゃやつじ
神立茶屋辻

この街道はむかし大阪玉造と大和竜田を結ぶ重要な道筋にあたりこの辻には多くの茶屋が並んでいたのでその名がある。また在原業平と茶屋娘の恋物語りで名高い。 業平が峠を越え玉祖神社へ参詣の途中、福屋の娘梅野をみそめたが、ある夜東窓があいていたので中をのぞくと、娘が手づからでめしを食っているので、急に興ざめ逃げ帰った、娘は後を追ったが見あたらず悲んで渕に身を投げた。 この高安の里では、今でも東窓を忌み、これをあけると娘の縁が遠くなるという伝説がある。 この道を登ると水呑地蔵、十三峠がある。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1981年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

現場

ふたまた
二俣

この地は旧大和川が、いまの玉串川と長瀬川に分水するところである。宝永元年(一七〇四)十月今米村(旧河内市、現東大阪市)の中甚兵衛らによって四十数年にわたる請願が遂に幕府を動かし、いまの大和川へ川筋が付替えられた。その後、この地一帯の旧河川敷は東弓削、弓削の人々によって開墾されて、「二俣新田」と名付けられ地名となった。【出典:『史跡の道・説明石板』八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

石板現場

たかやすじょうあと
高安城跡

西暦六六七年天智天皇が対馬国金田城、讃岐国屋島城とともに築造された古代の山城、白村江の戦後、百済領に進出した唐の勢力の侵攻に備えたもの、 当時畿内の田の税である籾と塩を倉庫に貯蔵した、城域は高安山から信貴山にかけての山地に広がる。 大阪府側の急ながけは自然の防塁、高安山頂は高安烽跡、奈良県側の緩傾斜地には「高安城を探る会」によって昭和五十三年四月倉庫跡の礎石群が発見されている【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1981年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

高安出城址

たかやすでしろあと(しぎさんじょうでしろあと)
高安出城址(信貴山城出城址)

①高安山の山頂部の小字を出城という。松永弾正久秀の出城が築かれた所という。山頂部は大きく削平されていて、三つの部分に分かれる。本丸、二の丸、三の丸といわれる曲輪で、典型的な中世山城となっている。本丸の部分は高安山山頂に当たり、三角点がある。土塁が三方にめぐる。二の丸は四方を土塁が囲み、三の丸との間は深い空堀となっている。三の丸は二の丸の南にあり、かなり広い削平された曲輪で、北方に土塁がある。入口が東北と南東の隅にある。ところで本丸の部分は古くから高安烽跡といわれている。昭和57年2月、大阪府教育委員会は高安城範囲確認調査の一環として、ここを発掘した。その結果、僅かに土師器・須恵器が見つかったが、高安烽跡の遺構は確認できなかった。しかし、16世紀の建物2棟、鎧の草摺、甕などが出土した。これで中世末の山城があったことが遺物面でも確認された。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】②近鉄西信貴ケーブル「高安山」駅前に「高安山の史跡案内」がある」
高安山史蹟案内碑:高安山から信貴山への山道は緑の中のハイキングコースとして人気がある。一方、ここは、史跡も多く、史跡を見ながらハイキングをしてほしいと願って、昭和60年6月、この史蹟案内図ができた。碑面は三部からなる。左から高安出城、高安城倉庫址礎石群、信貴山城である。この順に歩くと、ハイキングと歴史散歩を楽しみながら自然と信貴山朝護孫子寺へ行けることになる。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】

高安城倉庫址礎石群 2号

たかやすじょうそうこあとそせきぐん
高安城倉庫址礎石群

昭和53年(1978)発見 奈良県平群町久安寺字金ヤ塚 奈良時代前期 西暦六六〇年、唐と新羅は連合して百済を攻め滅ぼした。救援を求められた斉明天皇や皇太子中大兄皇子は九州へ向かったが、天皇は九州で急死、百済へ向かった日本の水軍も白村江の戦いで唐の水軍に完敗した。この緊迫した状況のもと、天智天皇は六六七年、近江大津宮に遷都、そのいっぽう、ここ高安山に高安城を築いた。対馬の金田城、九州大宰府を守る大野城や基肄城、瀬戸内の屋島城などと並ぶ日本防衛のための大規模な古代山城である。この高安城を一三〇〇年たった今、高安城を探る会が倉庫跡礎石六棟分を発見、城の所在地を確認した。高安城には築城後、畿内の田税である穀と塩を蓄え、非常時に備えたが、六七二年の壬申の乱で倉庫は炎上、その後天武・持統天皇の時代に修築され、文武天皇の七〇一年に廃城となったと、『日本書紀』や『続日本紀』に見える。この倉庫は六棟の内の2号棟で、橿原考古学研究所が昭和五七年三月に発掘した。この時、礎石の下から平城京跡で発見されているものと同じ暗文入りの盤(大皿)や杯が多数出土した。この土器の年代から、これらの礎石は奈良時代前期、七二〇~七三〇年代のものと判明した。3号棟も昭和五八年三月に発掘され、同時期と判明した。ただ、ここでは礎石を取り巻く形に掘立柱列がめぐっているのが発見された。【出典:『高安城跡倉庫礎石群・ステンレス製説明板』(高安城を探る会、1996年)より抜粋】

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