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地蔵堂

やまたけじぞうそん
山畑地蔵(宝積寺)

山畑地蔵尊由来
本地蔵尊は、安永年間(1780年頃)山畑百二十九番屋敷地蔵に出現される。村人は、不思議な出来ごとゆえ、この村に縁ある地蔵尊とあると、合議の上当所に安置し、延命地蔵尊とし家内安全、病気祈願ことに子供の守護尊としあがめる。そして村人は、健康で過ごす喜びにひたり常に花線香の煙の絶えることなく信仰を深め文政十年(1827年)弘法大師を合祀し仮堂を建立する。その後明治二十五年(1892年)七月地元の発起人により村人有志とともに本堂を建立し、地蔵講をつくり、盛大に祭事を行う。昭和に至って二月講中山畑区世話人が引継ぎその都度修理復元しながら祭事を続けたが昭和五十四年(1975年)五月本堂の老朽化がすすみ屋根の雨漏り著しく世話人三十六名合議の末、山畑区の皆様の協力のもとに、弘法大師を復元し本堂を新築することになり心からの奉賛を受ける。七月二十二日、堂の解体を行うと二百年来村人をご守護くださった延命地蔵尊は、風化作用のためお姿は変わりはて復元の余地なし、世話人三十六名により二代目延命地蔵尊を迎え八月四日上棟、八月二十三日、開眼披露を行う。ご命日八月二十三日は、石段から境内一帯は老若男女で溢れるばかり、また子供の誕生ごとに奉納される提燈の数は、三百振を越える賑やかさである。この祭事は、守護される子供たちや延命を祈願する成人により永遠に引き継がれる。 山畑延命地蔵尊 ごくらくの山畑地蔵大菩薩 助けたまえやこの世さきの世 弘法大師(空海) くうかいの心のうちに咲く花は みだよりほかに知る人はなし 昭和五十四年八月吉祥日 継承 如月会 平成十四年八月吉祥日【出典:『山畑地蔵尊の由来・説明板』(如月会、2002年)】

地蔵堂

こうだちつじじぞう
神立辻地蔵

神立地蔵堂(南小路の地蔵)内にある。神立集落の中、十三街道を水呑地蔵へ上がる登り口に当るところにある。総高115㎝、幅48㎝の舟形光背に像高83㎝の地蔵立像がある。江戸時代初期をくだらない地蔵と考えられる。この地蔵堂の前に、第一番の石仏がある。ここから水呑地蔵まで、33カ所、六十六番までの二対組み合わせの石仏が並ぶ。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】

石碑

おんぢじょうし
恩智城址

恩智城は中世この地の豪族恩智左近満一が築いた。自然の高地を利用した城郭で高安連峰との間に堀をめくらせ前方に大阪平野を一望のもとにおさめた。 堀の中にかつては小島があったがそれはむかしの一の丸で現在の城址は二の丸の址という。 正平三年(一三四八)四條畷の戦いで楠木正行が戦死し恩智城も落ちた。 学制領布のときここに小学校が新築され、今では桜の名所として知られている。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾教育委員会、1980年)】 
*恩智左近の出身地などについてはいくつかの説があります。

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

恩智左近の墓

おんぢさこんのはか
恩智左近の墓

恩智左近満一は恩智神社の社家の出で、この地の豪族として恩智城を築き、楠木正成方に味方した八臣の一人である。 湊川の戦の後は、その子正行を助けて南朝方を守ったが不幸にして延元二年(一三三七)七月熱病のため急死した。 傍の墓碑十六基は明治十年の西南戦争に官軍として従軍し、戦死した中河内近在の人々の墓である。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】
*恩智左近の出身地などについてはいくつかの説があります。

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

本間孫四郎の墓

ほんままごしろうのはか
本間孫四郎の墓

孫四郎忠彦は、相模の人で新田義貞の家臣であった、弓の名人であったと伝えられ、足利尊氏が四海から大兵を携して東上するや、これを和田岬で拒けた。 後この地の住人となり、本間垣内の小字もあり、今に子孫の本間家がある。 この二伯の五輪塔は、孫四郎の墓と伝えられ、梵字一字があるが判読は不明、鎌倉時代に属する。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1975年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

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