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神社・仏閣

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祭場

かづらじんじゃ
式内社 加津良神社

この加津良神社は「河内名所図会」では萱振村にありとしている。祭神は素戔嗚(すさのお)命であるが、現在は牛頭天王(ごずてんのう)と称している。疫病を治める神として祀られた。貞観九(八六七)年二月二十六日官社となる。昔は社地が広く、宮跡、神道森、鳥居、西松馬場などの地名が残っている。明治四十一年、栗栖(くるす)神社に合祀されたが戦後復活した【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1994年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

八尾市指定保全樹木第一号 くすのき

きづきじんじゃ
杵築神社

弥生時代の佐堂遺跡内にある産土神で通称「佐堂のお宮さん」で親しまれている。祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)で出雲の本社から分霊したものと伝えられる。本殿は一間社春日造で覆屋内に鎮座する江戸時代中期の建築様式である。境内には享保十八年(一七三三)宝暦五年(一七五五)の銘のある石灯籠もあり由緒深い神社である。神社の後方には佐堂狐山という宮寺の土壇の跡があって、舟形の花崗岩に五輪塔を陽刻し、地輪に「元亀元年□道智□八月」の銘のある墓碑があったが今は佐堂の墓地に祀られてある。【出典『史跡の道・説明石板』八尾市・八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1986年】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

石板

きゅうほうじいせき
久宝寺遺跡

長瀬川の西岸にかかる久宝寺一帯は古代より水陸交通の要衝として発展してきた土地で、弥生・古墳時代の大規模な集落遺跡として知られている。近畿自動車道の発掘調査では古墳時代の準構造船や韓式系土器が出土しており、古代の運搬や交易の様子が明らかにされている。久宝寺小学校体育館敷地では、平成三年に発掘調査が実施され、竪穴式住居二棟をはじめ多くの溝や小穴が検出されたことから、弥生時代末~古墳時代初頭の集落の一角であることが判明した。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、乾房子 書、1994年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

意満時 正門

いまんじ
意満寺

信貴道丁石 四丁石の立っている対面角にある…信貴道道標と丁石:旧高野街道の教興寺四つ辻は、高安信貴山道の起点であり道標が2本建っている。南西角の寺川家前の道標は、宝永5年(1708)のもので、市内の建設年次を記した道標としては一番古いものである。南東角の浅田家前の道標は、元治1年(1864)のもので、いずれも信貴山案内のものである。参詣道には一丁毎に丁石が建てられ、今も十数本の丁石が残っていて昔をしのばせる。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)より抜粋】

鳥居

あとべじんじゃ
跡部神社

由来:当神社は延喜式内社(今より約阡八十年前)人皇天皇第六十代醍醐天皇時代に延喜年間と言ふ年号が有り、通稱平安時代又は藤原時代と言はれております。其の初期にお祀りされておりましたのを今の跡部神社であり、その時に有りました神社を式内社と言はれております 又神社の創建せられました年月は不明でお祀りして有る御祭神もあきらかでありません 然し此の地は昔から古の跡部郷と言ひ阿刀連と言ふ人がおられました。それ故に阿刀の連と言人の祖先としてお祀りされたと言はれております。しかるに明治五年四月太政官公附で天照皇大神 伊弉册大神を一緒に合祀せられ同年に村社に列せられました 現在は天照皇大神 阿刀連大神 八王子大神の御三方の神様がお祀りしてあります 八王子大神様とは北亀井の里に小さなほこらにお祀りして有りましたが昭和の初期に神社に合祀されました 跡部神社の建造昭和四十八年十月正遷宮に建設す 【出典:説明石板』(跡部神社社殿竣工記念芳名石1973年)】

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