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いま黒谷の旧庄屋坂本家の門前にある。江戸時代に幕府や領主などからの御達しやお触れ書きなどを板に写して、こうした高い所に揚げて示したからこれを高札といい、その場所を高札場といった。一般民衆にお達し書などを周知せしめるための施設である。年貢の免定を初め、禁止の条項とか、色々の法令を記したものなどが揚げられ、明治6年(1873)まで使用された。この高札場は、文字通り屋敷そのものが高くなっているため、高さ170㎝の石垣の上に、立派に瓦葺きの屋根をもって、正面幅150㎝の高札場が設けられていて、下から仰ぎ見るようにされている理想的なものである。先年まで大竹の松本家の門前にもあったが、今は市内ではこれが唯一のものである。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】
②信貴道道標と丁石:旧高野街道の教興寺四つ辻は、高安信貴山道の起点であり道標が2本建っている。南西角の寺川家前の道標は、宝永5年(1708)のもので、市内の建設年次を記した道標としては一番古いものである。南東角の浅田家前の道標は、元治1年(1864)のもので、いずれも信貴山案内のものである。参詣道には一丁毎に丁石が建てられ、今も十数本の丁石が残っていて昔をしのばせる。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)より抜粋】
八尾街道は奈良街道(国道二十五号線)の平野東交差点から分れて久宝寺、八尾の寺内町を通り、老原交差点で再び奈良街道に合流する道である。恩智街道は東高野街道の恩智神社鳥居下から分かれて曙川を通り、国鉄八尾駅までの道である。両街道は明治時代には重要な街道として交通量が多く、荷車、自動車も往来したとの記録が残っている。このようなことから、明治四十五年に大阪府がここに道標を建てたが、この交差点が整備される前は、辻の東側に倒れていたものを、老人センター建設を機に地元の人達の協力でここに移して保存されることになった。 【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
長瀬川はもと大和川の本流で古くはおよそ二〇〇メートルの川幅があり、人と物資の運搬で川舟が往復した。 宝永一年(一七〇四)大和川の付け替え後は井路川となり、八尾と久宝寺の人々の共同出資で剣先船が人や米、木材などを京橋まで運び、年貢米の運送や、大阪、淀などへの往復でにぎわった。 こちらの八尾側の方を八尾浜むこうの久宝寺側を船着場とよび、ともに祭礼のときのお旅所であった。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協
議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
立石峠道を上りつめたところ、道が二股になっている。この分かれ道のところに地蔵が立っている。総高120㎝、幅45㎝の舟形光背に像高73㎝の地蔵立像である。像の左右に銘文がある。右 しぎ山たつた道 為無縁法界 久安寺村市兵衛 左 まつのを山え 享保二十乙卯年四月吉日 右は信貴山、龍田への道、左は松尾山への道を示している。享保20年(1735)【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光著・八尾市市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会1998年)】より抜粋
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