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神宮寺小太郎の墓

じんぐうじこたろうつか
神宮寺小太郎塚

神宮寺小太郎は当地の豪族で、神宮寺城を構え恩智左近満一とともに楠木正成に属し、その八臣の一人である。 正成湊川で戦死後はその子正行に従い四條畷に出陣して討死し、そのとき北朝方により神宮寺城も落ちた。 塚はもと古墳で明治末年に所有者により発掘され破壊されたという。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

本堂

きたむき おねがいじぞうそん
北向き お願い地蔵尊

願文 一樹の陰に宿り一河の流れを汲むも皆是れ他生の縁とか申す通り私共東山新町九丁目住民はお互その生地職域を異にし乍らも同じく聖徳太子ゆかりのこの地に水住の居を定めて日々親しいおつきあいを致して居りますことは想えば誠に浅からぬ因縁かと存じます 今後益々その親睦を深めより一層相互の融和をはかるよすがとして此の度町内に清浄の地を選び地蔵菩薩の御尊像を安置し奉りて町内各家の家内安全厄災消除家運隆昌子孫長久等の諸願をこめて永くお祠り致すことと相成りました惟いまするに「佛身は法界に充満して普ねく一切群生の前に現じ縁に隨い感に赴いてあまねからずと云うことなし」との佛説を固く心に念じてこれより以後私共町民は老若男女幼な子に至るまで毎日交々に香華燈燭絶することなく朝な夕な合掌禮拜敬虔なお祈りを捧げ続けることにより必ずや菩薩権化の御冥助あらたかなるものあることと深く信じるもので御座います   茲に本月本日吉日を卜してその開眼のおつとめを相営みまするに當り謹んで御名を「北向きお願い地蔵尊」と稱え奉り恭しく御真前に茶菓等の淨供をお供えして懇ろに御回向供養を致すもので御座います。伏して願くばこの功徳勝因によりまして地蔵菩薩様何卆私共町民のこの眞情を御照覧哀愍され給うて永くこの座に鎭り下され六道能化の慈悲の御手を私共の上に差しのべられますようお祈り致すと共に町内安穏町民各々の諸願慈く成就下されますよう専心お願い申し上げます 【出典:『北向きお願い地蔵尊 願文』 (八尾市東山本新町9丁目住民一同、1977年)】

石板

やおみなみいせき
八尾南遺跡

八尾南遺跡は羽曳野丘陵縁端に立地する縄文時代から鎌倉時代に亘る複合集落遺跡である。この遺跡の発掘調査で注目されるのは、古墳時代の掘立柱建物や竪穴式住居によって構成される村落・古墳 方形周溝墓および畦畔や足跡の遺る水田跡等である。出土品のなかには、古代王権の象徴である玉杖を模した木製の儀杖や、朝鮮半島の影響を強く受けた韓式系の土器などがあり、古墳時代の河内国を考える上で重要な内容を持った遺跡である。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

銅鐸出土地

どうたくしゅつどち(あんようじきんぼう)
銅鐸出土地(安養寺近傍)

この地は恩智字向谷といい、本寺裏山の通稱垣内山のすぐ裏手の山裾から大正十年(一九二一)風雨のため山崩れが生じその赤土露出部より流水紋銅鐸が発見された。 流水紋様は弥生時代前期から中期にかけて近畿を中心に流行した流水紋土器に見られ、この鐸もその影響を受け作られたものであろう。 銅鐸は現在東京博物館にありその拓本が当寺にある。安養寺は浄土宗で本尊は阿弥陀如来である。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

地蔵堂

しゅみいじぞう
シュミイ地蔵

名前の由来はわからないが、地元恩智の有志が結集して菩提追善のため、彼岸の中日に建立したものである。高さ一三六センチメートル、幅六七センチメートル材質は花崗岩である。像の左右に次の銘文がようやく読みとれる。良盛長盛道梁妙見也阿常助宗 父道善宗恩道明為脩門 道妙□阿妙法 天文十三年甲辰八月時正 河内国恩智□逆修一結衆 敬白【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

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