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石柱

おんぢせっきじだいいせき
恩智石器時代遺跡

この地、天王の森は恩智神社のお旅所でこの森を中心として東高野街道から恩智川に至る付近一帯は府下でも有名な弥生時代の遺跡で大阪府の建てた碑がある。近年縄文式土器も出土している。 今日まで地下およそ三メートルの辺から種々の石器土器が出土し、またこの斜面から石鏃が露出した。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

垣内共同墓地

かいちきょうどうぼち
垣内共同墓地

垣内、教興寺、黒谷、郡川、服部川、山畑地区の共同墓地で、行基のつくった河内七墓の一つである。戦国時代末期の小五輪塔や、江戸時代前期の年号をもつ名号板碑などが多く残っている。墓域の東側の高台には、高さ二メートルを越える大きな五輪塔が建立されている。空・風・地輪は後世のものであるが、火輪は軒反りも力強く鎌倉様式で、水輪も大きく重厚なものである。全体的にもつりあいがよく、整然とした五輪塔で、市内でも代表的な石塔といえる。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、甲斐房之助 書)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

十三峠付近からの眺望

じゅうさんとうげ
十三峠

①大阪玉造から深江、高井田を経て、神立から大和の龍田に越える峠をいう。文久3年(1863)8月、伴林光平が、大和天誅組の旗上げの時、大阪玉造に和歌の教授に来ていて、十六日の夜半その通知をうけて、直ちに脚気の重い足を引きずるようにして、急ぎこの十三峠を越えて、大和畝傍にかけつけたのである。大阪玉造と大和龍田方面とを結ぶ最も重要な街道筋の峠に当る所である。明和2年の峠の地蔵と天理教小寒さんの碑がある。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】 

②十三峠の石仏:十三街道は、八尾市神立と平群郡を結ぶ道筋で、近世には大坂から伊勢参宮のルートとしても賑わった。その峠には旅人安全を願って福貴畑の村人により立てられた地蔵石仏(明治2年:1765)があり、街道の道標(元禄2年:1689)や松尾寺への道しるべも並んでいる。峠の北側には名称の起こりとなった十三塚があり、重要文化財に指定されている。このルートは「業平道」とも呼ばれ、平安初期の歌人で六歌仙の一人、在原業平が天理より神立の女性の元に通った道ともいわれる。平群町では、中部コース「十三街道と業平ロマンの道」の愛称で案内板を整備している。【出典:『木製説明板』(平群町福貴畑)】 

五輪等

こうだちきょうどうぼち
神立共同墓地

河内七墓の1つで、五力村(神立・水越・大竹・大窪・千塚)の墓地として管理されている。墓石の中のひときわ大きい五輪塔は、総高2mある。各輪に梵字を刻み、地輪に、正和2年(1645)11月19日、大窪村の岩田氏の墓である大字がある。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】

愛宕塚古墳

あたごづかこふん
愛宕塚古墳

古墳時代後期の横穴式石室墳である。封土は墳頂部を除いてよく保たれており墳丘は径約二五メートル、高さ六、五メートルで、円墳の形状をよくとどめている。巨石を積み上げた横穴式石室は奥行一六、七六メートル、玄室の高さ四、一メートルを測り、高安古墳群中最大規模の後期古墳である。石室は古くから開口していたが、昭和四二年学術調査が行われた。遺物では凝灰岩製の家形石棺片、鉄製利器、金張鉄製品、土器のほか玉類、鉄地金銅張馬具など優れた副葬品が多量に残存していて被葬者の地位、性格を物語っている。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

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