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地蔵堂

ほうりゅうじ えいろくじぞう
法立寺 永禄地蔵

融通念仏宗法立寺の下にある辻地蔵堂にある。高さ110㎝、幅56㎝の花崗岩に像高73㎝の地蔵立像を半肉彫にしている。美しく優雅な像容である。像の左右に次の銘文が陰刻されている。地蔵講一結衆本□衆 永禄十二年巳十月廿四日地蔵講の人々が造立したことがわかる。なお、この永禄地蔵堂内に元和の線刻地蔵がある。これは高さ30.5㎝、幅19㎝ほどの方形の板石に、像高15㎝の地蔵立像を線刻したものである。像の左右に、妙尼 元和四年とある。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】 

東高野街道・恩智街道 交差路

ひがしこうやかいどう・おんぢかいどう
東高野街道・恩智街道

東高野街道は京都から高野山参りをする東側の街道で、この名がつけられているが、地元では京都への道ということから京街道と呼ばれてきた。 ここは、東高野街道と恩智街道の交点であり、二本の道標がある。 その一本は恩智の人達が建てたもので、文字、彫もよく この地の人達が旅人に親切であり、道路を大切にしていたことを感じる。 恩智街道はここから曙川を通って、国鉄八尾駅までの道である。明治二十二年大阪鉄道(国鉄関西本線)の八尾停車場が開設されると、この街道の通行者が多くなり なかでも大阪からの信貴山参りの人達がこの道を利用したため、大正時代には荷車に加えて自動車が往来するほどにぎわった道である。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

石板付近

しぎさんどう
信貴山道

東高野街道の教興寺の四つ辻を起点に、この権現社前を通って信貴山までの山越えの道は、丁石が建てられている参詣道として、市内ではこれだけである。往時、信貴山信仰が盛んであったことを物語る丁石の中には、灯明を入れる火袋を持った立派なものが多く、信貴山の宿坊千手院の鳥居の下の四十二丁石が終点である。教興寺の四つ辻には、市内で一番古い宝永五年の道標と、元治元年の道標の二本があり何れも信貴山案内のものである。またこの辻の寺川家の庭には千手院の関係者が建てた宝篋印塔があり、その台石には「天下泰平、五穀成就」の文字が彫られている。これから信貴山信仰の人達が、自分達の安心立命だけでなく、広くみんなの平和と豊かなくらしをも願っていたことをうかがうことができる。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】


*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

石板付近

ひがしこうやかいどう(かいちいちりづか)
東高野街道(垣内一里塚)

俗に京街道、高野道といい、伝えによると白河法皇が弘法大師三〇〇年遠忌に参拝のとき、河内石川の安助上人が開いたという。京都と高野山を結ぶ参拝路で、平安時代から鎌倉時代にかけては歴代天皇、諸公家たちが往来し、南北朝時代には京都と南朝方軍勢の出合い道であり、戦国時代には畠山一族、三好一族などの合戦の通路となった。この垣内一里塚は、その里程をはかるもので、数年前までは善根寺、四条、楽音寺にもあったが、いまはここだけである。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

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