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神社・仏閣

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あごなしじぞうそん
あごなし地蔵尊

久宝寺御坊(顕証寺)前の地蔵堂内にある。総高41cm舟形光背に高さ14cmの蓮華座を彫り出し、その上に立つ像高22cmの地蔵二尊仏で、双体道祖神を想わせる像容である。像の左に“をきのくに あごなし地蔵”と陰刻されている。あごなし地蔵は隠岐島の小野篁作といわれる地蔵が本家である。口の中が荒れたり、虫歯で痛んだ時に祈願すればなおしてくれる地蔵である。地方によっては、全快すれば「お名前をひろめます」と約束し、板に「隠岐国あごなし地蔵菩薩口中一切願成就業年男」と書いて四辻に建てるところもある。【出典:八尾市史紀要第10号『八尾の石仏』(谷野浩著・八尾市教育委員会文化財室1987年)より抜粋】

にしぐちじぞうそん
西口地蔵尊

平野口地蔵尊とも云う。平野口は顕証寺の門前から北西にある辻で、旧八尾街道にある。寛政年間(1790年代)お逮夜市の日に南町焼けといわれる大火がおこり地蔵堂が焼失したので、現在地に移された。ここは火災のときの火元であったと云われる場所である。花崗岩製。像高30cmの地蔵立像であるが、要望は磨滅し、不鮮明である。【出典:八尾市史紀要第10号『八尾の石仏』(谷野浩著・八尾市教育委員会文化財室1987年)より抜粋】

みそやじんじゃ
三十八神社

大字福万寺村社にして東西十五間三尺六寸、南北十八間、面積二百八十一坪大字の北方にあり、天照大神、八幡大神、春日大神を祭る旧福萬寺の鎮守なり。往昔佐々木某あり、福万寺に居る文和の頃去て美濃國安八郡に移住す、因て其舘址に就き更に此社を修営す(元禄十六年癸未十二月祠堂再修の願書に曰く當村氏神三十八社明神の境内往古よりの宮除地にて御座候処云々)明治五季壬申八月廃せられ、地は官林となし祠堂旧に仍て存置す、同十二年十月三十一日村民の請願により復旧の許可あり白幣御挿入にして古は境内より北方にありて、東西八間、南北十五間、面積百三十坪あり、明治五年壬申八月廃せられて現今芝地となり【出典:『大阪府中河内郡三野郷村史誌』(大正元年(1912)12月31日調整)より抜粋】

しらみじぞう
シラミ地蔵尊

東山本町5丁目、旧の万願寺村の北の入り口に道に面して地蔵堂があり、これをシラミ地蔵といいます。江戸時代前期頃の阿弥陀像です。花崗岩製の総高44cm、幅25cmの舟形光背に像高24cmの阿弥陀像を陽刻しています。堂の向かいに常夜灯一基が立っていました。善光寺、文化六巳年九月の銘文があります。この道は垣内の元善光寺への参詣道で、信濃の善光寺を建立した本田善光が難波の堀江に捨てられた仏像を拾い、国に帰る途中、垣内に一泊した時に通った道ともいわれています。また、俊徳丸が四天王寺へ通った道ともいわれています。俊徳丸が四天王寺からここまで帰ってくると、空が白んできたということから、シラミ地蔵と呼ばれました。なお、この常夜灯一基は、現在は垣内善光寺の門前に移されています。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光著・八尾市市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会1998年)より抜粋】

やまもとつじしぞうとどうひょう
山本辻地蔵と道標

もと玉串川沿いにありましたが、道路拡張工事により、ここに移されました。正方形の台座の上に高さ70cm、幅36cmの船形光背に像高42cmの半跏相の地蔵石仏です。台石にも右信貴山、左立石越、文化六年十月建立俗名三太像と彫られています。道標を兼ねた石仏で、常時菅笠をかぶっています。隣にもう一体石仏が並んでいます。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光著・八尾市市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会1998年)より抜粋】

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