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やすなかしんでんかいしょあときゅううえだけじゅうたく
安中新田会所跡旧植田家住宅

旧植田家住宅は江戸時代の大和川付け替えにより造られた安中新田の会所跡を継承した歴史的に貴重な建物です。
 建物と安中新田会所跡を一般公開し、併設した展示室では旧植田家所蔵の古文書や絵画、民具なども展示しています。

向山古墳全景

むかいやまこふんとむかいやまがようあと
向山古墳と向山瓦窯跡

古墳時代の前期に属し、独立丘陵を利用して設けられた西向きの前方後円墳である。墳丘は早くから開墾されて植木畑となり、後円部は一部が採土されている。後円部南側の池畔に平安時代末期の窯跡があり、いまも窯の一部が遺っている。ここで焼かれた瓦は宇治の平等院、京都の醍醐寺をはじめ近畿各地に運ばれている。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

りんかくどうそうけんいひ
麟角堂創建遺址

“麟角堂創建遺址”の碑があります。戦国時代久宝寺城主渋川満貞の創建といわれ、堀川屋敷に学者を招き、講筵(こうえん)を設けたことに始まります。天正3年(1575)安井定重これを復興し、堺の学者今村道和を招いて、孔子像をまつり、漢籍の講義がありました。江戸時代には伊藤仁斎や東涯も招かれて講筵を開きました。大正2年安田覚三郎再び復興し、西村天因を招いて開講、同11年には私立学舎の認可を受けて漢学の講義を開いたこともありました。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光著・八尾市市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会1998年)より抜粋】

ふるぐちじぞうそん
古口地蔵尊

寺内町北西の出入り口にある。地蔵堂は宝形造りの立派なものである。歯痛に霊験あると云う。像は高さ30cm、幅25cmの舟形光背に像高25cmの坐像である。【出典:八尾市史紀要第10号『八尾の石仏』(谷野浩著・八尾市教育委員会文化財室1987年)より抜粋】

にしぐちどうひょう
西口道標

平野から八尾へ通じる古い八尾街道は、一度久宝寺の町中を通って、八尾へ抜けています。西口から入ると道はすぐ家に突き当たりますが、それを北に折れてすぐ一つ目の通りを東へ行きます。この通りを表町通りといいます。西口から表町通りへの折れ口のところに文政8年11月建立の道標があります。「左、平野、大阪道」、「右、八尾地蔵、信貴山」とあります。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光著・八尾市市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会1998年)より抜粋】

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