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この地は謡曲弱法師(ようきょくよろほうし)、浄瑠璃摂州合邦ヶ辻(じょうるりせっしゅうがっぽうがつじ)で名高い俊徳丸の故地で有名である。物語はこの高安の里の信吉長者(のぶよしちょうじゃ)の子であった俊徳丸が、継母に呪われて失明し、四天王寺の境内で物ごいの生活をする身となった。ところが以前、四天王寺で舞楽童をつとめた俊徳丸を見そめて恋仲となった同じ里の蔭山長者(かげやまちょうじゃ)の姪(めい)がこれを聞いて観音に祈願したところ病はなおり、二人は晴れて夫婦になったという。しかしこの塚は、横穴式石室をもつ六世紀の古墳であり、実川延若寄進の焼香台がある。【出典:『史跡の道・ステンレス製説明板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾市教育委員会)】
*説明には一部現状と異なる場合があります。
服部川の東方山腹にあり、谷一つ隔てて、郡川の法蔵寺に相対する。医王山薬師院神光寺と称し、曹洞宗蔭涼寺末である。享保年間(18世紀初め)に万徹和尚の開基で、薬師如来を本尊とし、本堂前に揚げてある“天玄堂”の扁額は、徳川光圀の帰依した東皇心越の書である。風景よく、参道には桜並木があり、桜の名所として知られ、春の花時には非常に賑わいを見せる。また付近一帯は、横穴式石室の後期古墳の群集地で、至る所に古墳がみられる。山門前には、懐徳堂、含翆堂創始者らの墓所を示す標石がある。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】
福万寺、上之島一帯は条里割がよく残り、その境界は、高安郡条里と河内郡条里の境に位置しています。この付近は、玉櫛荘と呼ばれた摂関家の荘園跡です。その名称は、平安時代の藤原實資の日記である小右記に初めてみられます。鎌倉時代の藤原兼仲の日記である勧仲記(かんちゅうき)には、ここに住んでいた武士たちが、本所や周辺の寺社と対立するようになったことが記されています。昭和57年、上之島小学校の建設にあたり発掘調査を実施したところ、鎌倉時代の武士の屋敷跡や道路などの遺構が検出され、中国製磁器(じき)や鏃、刀、宋銭、硯(すずり)などが出土しました。【出典『史跡の道・説明石板』八尾郷土文化推進協議会・八尾市教育委員会、1986年】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
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