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芳沢あやめ墓碑

よしざわあやめぼひ
芳沢あやめ墓碑

芳沢あやめは、五代を数える江戸時代の歌舞伎役者である。初代芳沢あやめは、歌舞伎の女形芸を大成した江戸時代、元禄期の代表的歌舞伎役者である。このたび、本照寺の境内から二代目、三代目、五代目の墓碑が発見された。向かって右側が二代目の、左側が三代目、五代目の墓碑である。当寺は昭和四十三年以前は大阪市の谷町にあった寺院であり、芳沢あやめ家の菩提寺である。江戸時代の歌舞伎役者の墓碑が確認された例はあまりない。今回確認された二基の墓碑は、近世の芸能史を考える上で、大変貴重なものである。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、2003年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

石室

たかやすこふんぐん こうりがわ30ごうふん
高安古墳群 郡川30号墳

日蓮宗本照寺の境内にある6世紀後半の古墳です。両袖式の石室で、玄室の平面形状が正方形に近い形をしていることが特徴的です。(妙道窟としてお祀りされていますので、本照寺に声をかけてから、静かに見学してください。鳥居の奥の扉の中が石室です。)【出典:『やおの歴史遺産 高安古墳群を歩こう』(八尾市教育委員会、2008年)】

桃林堂板倉家住宅

とうりんどう いたくらけじゅうたく
桃林堂 板倉家住宅

平成11年7月に国登録有形文化財になりました。市内で最も古い民家の一つです。代々、河内木綿の問屋を営んだ旧家で、大正期に現在の板倉家が移住し、当屋敷で菓子業を始めて、今日に至っています。大阪や奈良にかつて分布していた大和棟の間口9間半、奥行4間の大型の民家で、切妻造の茅葺屋根に、庇は本瓦葺です。道路に面する建物の外観は、江戸時代(18世紀前半)の町家の景観を残す貴重な建物です。 【出典:『ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会)】
[国指定文化財:平成11年7月指定]

*説明には一部現状と異なる場合があります。

狐山

やおこうこうのきつねやま
八尾高校の狐山

旧大和川の堤防の一部がつぶされずに残ったものといわれる。堤防上の狐をまつる小さなほこらの土地が最後まで残ったものであろう。戦前の旧制八尾中学校、戦後の大阪府立八尾高等学校の校庭の隅にあって、多くの生徒たちの姿を見守ってきた。旧八尾中、八尾高校100周年にあたって校舎の建て替えで、現在は校舎の中庭にとりこまれることになった。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室・八尾市郷土文化研究会、1998年)】

説明板

かぶらやづか
鏑矢塚

用明二年(587)に厩戸皇子(うまやどのおおじ)(聖徳太子)をはじめとする皇子達と蘇我馬子(そがのうまこ)らは、渋河の地で物部守屋(もののべのもりや)の軍勢と戦います。稲城(いなき)を築き、榎木の上から弓を放つ守屋に苦戦した皇子らは三度退却しますが、四天王に祈願すると、迹見赤檮(とみのいらい)の放った矢が守屋を討ち、皇子と馬子らは勝利したと『日本書紀』に記されています。大聖勝軍寺(たいせいしょうぐんじ)の周辺にはそうした史跡が残されており、鏑矢塚は、迹見赤檮が守屋を射た矢を埋めたと『大聖勝軍寺略縁起』(1455)は伝えています。鏑矢とは、先端が植物の「かぶら」のような形をしている矢のことです。『日本書紀』にはみられませんが、太子信仰や八尾の歴史を考えるうえで重要です。【出典:『ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会、2010年)】

*説明には一部現状と異なる場合があります。

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