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神社・仏閣

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正門

じんぐうじ
神宮寺(服部川)

神宮寺は貞享年間(1684~1688年)に創建された臨済宗妙心寺派の禅寺である。境内は四季折々に色づく花々、大樹に包まれている。「自然のまま」との住職の思いを映した境内墓地は、河内西國巡礼の巡拝の人々や、春秋の彼岸には檀信徒が法要に集まり、にぎわいをみせる。境内墓地の入口近くに「西向き地蔵」と呼ばれる「線彫り地蔵」がある。山門西側には樹齢500年に及ぶ楠の大木が社を守り、地域鎮守を担ってる。【出典:『神宮寺について』を参考】

大窪・山畑7号 抜塚

たかやすこふんぐん おおくぼ・やまたけ
高安古墳群 大窪・山畑7号,8号墳

①大窪・山畑7号墳(抜塚):浄土宗来迎寺の墓地内の南側、現在地から右手に見える横穴式石室墳(ゆこあなしきせきしつ)です。トンネルのように、通りぬけることができることから、抜塚ともよばれています。現在、残っている部分は、羨道(せんどう)といわれる石室の通路部分です。羨道の長さは8m、高さは2.2mあります。本来はこの部分の北側、本堂寄りに、玄室といわれる棺(ひつぎ)を納めた部屋がありました。玄室は、長さ5~6m、幅3m前後と推定され、石室の本来の長さは、13~14m前後になると想定でき、高安古墳群中で最大級の石室の1つであったと考えられます。石室には、巨大な石材が使用されており、奈良県明日香村の石舞台古墳(いしぶたいこふん)と同じ時期、7世紀前半頃に造られた古墳と考えられます。
②大窪・山畑8号墳:墓地内の上手、来迎寺本堂寄りにある横穴式石室墳で、墳丘(ふんきゅう)はわかりにくくなっていますが、墓地に囲まれて石室が残っています。石室の全長は6.8m、玄室は、長さ4.4m、幅1.7m、高さ2.2mの石室です。小さめの石材を使用し、玄室の平面形状が縦長の長方形をしています。これらは、古いタイプの石室を示すもので、高安古墳群の墓造りが開始されてまもない頃、6世紀中頃に造られた古墳です。③大窪・山畑7・8号墳は、「高安千塚」(たかやすせんづか)ともいわれる高安古墳群の集中地域のなかでも、北側の大窪・山畑南支群内の古墳です。来迎寺墓地内に残されたこれらの古墳は、「高安千塚」を造った人々の力の大きさや、墓造りが開始された頃の石室のありかたを知ることのできる貴重なものです。【出典:『史跡の道・ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会、2008年)】

*説明には一部現状と異なる場合がありま

楽音寺墓地

がくおんじぼち いたひ
楽音寺墓地 板碑

板碑:花崗岩製。総高94㎝、幅40㎝程の船形をした石の表面に、大きい宝篋印塔形を薄肉彫している。基礎部の堅枠に、元亀元年9月19日、阿闍梨実盛の陰刻がある。西暦1570年の造立である。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】

立石越・おと越道標

たていしごえ・おとごえどうひょう
立石越・おと越道標

八尾・山本からきた道は、中高安小学校のところで、二本の山越え道となる。服部川の上を越えるのが立石越道、大窪の上を越えるのがおと越道である。小学校正門前の道標は、天保11年9月に服部川村の観音講同行の人々が、西国三十三カ所参りを祈願して建てたもので、「右、信貴山立石」、「左、おうとごえ」となっている。おと越はおうと越ともいわれている。おと、おうと、おうとうを地名とすると、平群郡信貴畑の大戸山が関係しよう。おと越道標は、この近くではここから北東に道をとり、新道から大窪へ入るところに1本、大窪から神立へ行く道からおと越道への岐れ道に一本がある。初めが文化3年のもの、次が「左、おうとごえ」、次が天保15年3月のもので、「右、おうとごえ道、ほうりゅうじ」、「左、八尾平野道」とある。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】

地蔵堂

ろっかじぞう
六カ地蔵

六ヶ地蔵尊の由来:現在地は八尾市刑部二丁目一番地です。この御堂のある土地は小字茶之前と呼ばれています。北側の道は信貴山へ通ずる昔の道です。東側は旧大和川(玉櫛川)の西提でその堤下にあたります。地蔵尊の石材は古墳時代に造られた石棺の蓋を利用しています。地蔵尊の造られた時代は不明です。棺蓋は突起のない中形の刳抜式の家型石棺に属します。増田一裕氏の研究によれば七世紀中頃(六二五~六五〇)に造られたものとされています。岩室は淡灰緑色の流紋岩質凝灰岩で播磨国(姫路市から三田市)に分布する流紋岩質溶結凝灰岩の一部に似ています。古墳時代の後期に豪族を葬るために造られた石棺が時が流れ古墳も壊れ人目につくようになったのでしょう。平安時代の末から各地に石仏信仰が始まります。この地は刑部千軒といわれた時代に村の端に建てられたと思います。刑部千軒の遺物を示すものとしては昭和十七年に干害用井戸掘り工事の時地蔵尊の東 旧大和川から飲料水を取入れたと考えられる竹管が発見されています。昔から茶之前の地蔵さんと愛称され子供の霊を守り病気を救い村内に疫病の侵入を防ぎ道行く人々の安全をお守り下さるということでお詣りも大変多くありました。【出典:『説明石板』(八尾市市史編纂室室長 三上幸寿、大阪府立八尾高等学校教諭 棚橋利光、橿原考古学研究所所員 奥田尚、1980年)】

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