【209件中 121~125を表示しています。全42ページ】 前ページへ 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 次ページへ
昭和53年(1978)発見 奈良県平群町久安寺字金ヤ塚 奈良時代前期 西暦六六〇年、唐と新羅は連合して百済を攻め滅ぼした。救援を求められた斉明天皇や皇太子中大兄皇子は九州へ向かったが、天皇は九州で急死、百済へ向かった日本の水軍も白村江の戦いで唐の水軍に完敗した。この緊迫した状況のもと、天智天皇は六六七年、近江大津宮に遷都、そのいっぽう、ここ高安山に高安城を築いた。対馬の金田城、九州大宰府を守る大野城や基肄城、瀬戸内の屋島城などと並ぶ日本防衛のための大規模な古代山城である。この高安城を一三〇〇年たった今、高安城を探る会が倉庫跡礎石六棟分を発見、城の所在地を確認した。高安城には築城後、畿内の田税である穀と塩を蓄え、非常時に備えたが、六七二年の壬申の乱で倉庫は炎上、その後天武・持統天皇の時代に修築され、文武天皇の七〇一年に廃城となったと、『日本書紀』や『続日本紀』に見える。この倉庫は六棟の内の2号棟で、橿原考古学研究所が昭和五七年三月に発掘した。この時、礎石の下から平城京跡で発見されているものと同じ暗文入りの盤(大皿)や杯が多数出土した。この土器の年代から、これらの礎石は奈良時代前期、七二〇~七三〇年代のものと判明した。3号棟も昭和五八年三月に発掘され、同時期と判明した。ただ、ここでは礎石を取り巻く形に掘立柱列がめぐっているのが発見された。【出典:『高安城跡倉庫礎石群・ステンレス製説明板』(高安城を探る会、1996年)より抜粋】
付近一帯に群集する古墳は六世紀後半を中心に築かれた古墳時代後期の横穴式石室墳である。 遺体を安置する奥の玄室(げんしつ)部とこれに通ずる羨道(せんどう)部とからなっている。 巨石を組んで石室を設け、土を盛り上げた円墳でほとんどのものが入口を南に開いている。 総数約二〇〇基を数えるこの古墳群は比較的古い時代の群集墳として著名である。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1981年)】
*古墳の数は調査した時期により異なります。
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
標高一七メートル、俗に松山とか腹痛山という 墳丘の上部には粘土郭が残り、また火葬跡が二ヵ所発見され、石櫃の蓋の破片も出土している。 古噴時代の中期末の環濠式前方後円墳で、数年前に採土され、その跡に小神祠をまつる。入口のところに宝山神社の碑がある。 昭和三十四年四月大阪府から史跡として指定された。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1981年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
古墳時代前期の南面する前方後円墳である。もと楽音寺の村落がこの地の東の山麓にあった当時に古墳のある丘が「西ノ山」と呼ばれていたところから、そのまま古墳名として残っている。明治十四年(一八八一)開墾中に後円部から石棺が発見され、その中から人骨、勾玉、刀剣などが出土した。いま前方部は耕されて植木畑となっている。南の谷をへだてて、同じく前期の前方後円墳の花岡山古墳があった。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
この古墳は、標高百米付近に位置しており、直径二十米程度の円墳であったと推定される。平成元年発掘調査を実施した結果、全長九.一米、玄室の長さ五.一米、幅二.二米、羡道の長さ四.一米の横穴式石室とその中に納められた組合わせ式家型石棺三基(棺)を検出した。出土遺物には、亀甲?花文・鳳凰文・心葉文を銀象嵌した直刀二振及び、六世紀末から七世紀中頃の須恵器・土師器の他、耳環・鉄製品などがある。高安地域の首長を埋葬した古墳の一つとして重要な古墳であったと思われる。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、甲斐房之助 書)】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。
【209件中 121~125を表示しています。全42ページ】 前ページへ 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 次ページへ