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浅野家住宅

あさのけじゅうたく
浅野家住宅

平成16年11月に、主屋、乾蔵、巽蔵、東納屋、南納屋が国登録有形文化財になりました。主屋は、嘉永元年の祈祷札が発見され、乾蔵とともに、江戸時代末期の建築です。当時の建築様式を良く保っており、久宝寺寺内町で最も古い町家の一つとして、貴重なものです。また、5棟の建造物全体が、寺内町の屋敷景観を良く残しています。 【出典:『ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会)】

*説明には一部現状と異なる場合があります。

いこまじゅうさんとうげのじゅうさんづか
生駒十三峠の十三塚

①奈良県の竜田(たつた)に向かう十三街道の道筋にある峠を十三峠といいます。
 十三峠の北側上に「王塚」と称される直径6mの塚を中央に、その両側に6個の小さな塚が並んでいて、合計13個の塚が良好に残っています。
 十三塚は、供養塚あるいは、経塚(きょうづか)ではないかといわれ、十三仏信仰に関係しているとの話もありますが、よくわかりません。
 王塚の前に立てられた石碑には、「十三塚 嘉永三年(かえいさんねん・1850年)庚戊(かのえいぬ)四月吉日 施主(せしゅ)大坂 播磨太七(はりまたしち) 淀屋定助(よどやさだすけ)」の銘文があり、幕末には「十三塚」と呼ばれていたことがわかります。
[重要有形眠即文化財:昭和61年3月31日指定]

②生駒十三峠の十三塚:大和国と河内国の国境、奈良県生駒郡平群町と大阪府八尾市神立にまたがって所在する。河内より大和竜田・法隆寺へ抜ける十三街道のすぐ北側に南北に十三の塚が並んでいる。すでに江戸中期に広く知られた代表的な十三塚で、庶民信仰の様相を示すものとして重要であり、完存する十三塚として昭和六一年三月三一日重文指定を受けた。塚列は計画的に築かれており、標高四三八mの最高所親塚を築き、南北九〇mの範囲に六基ずつの小塚を配している。【出典:『木製説明板』(平群町教育委員会)】 
③峠の北側上に、王塚と称される大きな塚を中央に、その両側に六箇宛の小さな塚が並んでいて、十三塚といわれている。この王塚の前に石碑が立っているが、碑は「十三塚 嘉永三年庚戌四月吉日 施主大阪 播磨太七淀屋定助」の銘文がある。十三塚は神をまつる壇であるとも、また古墳であるともいわれている。古くここに石灯籠の王塚と記した竿石が、神立の玉祖神社の社家の庭に残っていたが、今は「八尾市立歴史民俗資料館」に保管されている。十三塚は、全国に330ヵ所程あったといわれるが、現存しているのは17カ所余りで、中でもこの神立の十三塚は大変良く残っていて、昭和61年2月21日付で兵庫県氷上郡山南町にある「金屋十三塚」とともに国の重要有形民俗文化財として答申された。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】

環山楼

かんざんろう
環山楼

環山楼は江戸の中期、当時八尾の豪商であった石田利清の設けた郷塾である。創建の年次は詳かでないが、命名は享保十二年(一七二七年)京都堀川の儒者伊藤東涯がこの地に招かれ講義のあと一泊、このとき学舎から高安、二上、金剛の山なみを一望し、その景観をめで環山楼と名づけたという。 学舎の創建当時は八代将軍吉宗の実学の奨励と文教刷新の時代であり、各地に郷学、私学の創設がつづき、この学舎も河内の中心地八尾にあった唯一の郷塾であり、後年東涯がこの思い出をまとめて記した「環山楼記」とともに、その扁額も保存されている。石田利清は字は善右衛門、賢明にして弁舌をよくし、その識才は郷土一円に名高く私淑する者多く、この学舎によって近郷の人々の教化を行った功績は特記すべきである。この学舎は創建当初八尾税務署裏西側付近、通称産屋といわれた地にあったが、昭和期に入って付近の公共工事施行のため三たびの移築で現八尾小学校敷地内に移されたが、さらに昭和五十六年に至り同校内に設置されるプ―ル建設工事のため四たび移築か廃棄かの岐路に立ち至ったが、市内の民間企業や篤志家から文化財愛護の精神に立っての浄財が寄せられ整備の上後世に永く保存することになり現在地に移された。  【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会・星電器株式会社・八光信用金庫・八尾菊花ライオンズクラブ・濱田又三郎 1982年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

[八尾市指定文化財:平成11年3月10日指定]

けんしょうじ くり
顕証寺 庫裏

庫裏は、建物規模が桁行(けたゆき)8間半、梁行(はりゆき)7間で、建物構造が切妻(きりづま)造・本瓦葺です。
 建立年代は、大棟(おおむね)の獅子口(ししぐち:屋根のもっとも高い位置にある棟飾り)に「宝永三稔丙戌八月十一日」の箆書きがあったことから、宝永三年(1706)に建てられことが判明し、地震で倒壊したため正徳六年(1716年)に再建された本堂よりも古いことがわかりました。
庫裏は、寺務を行う場ですが、住居としての機能も含むことから改造を受けやすく、宝永年間まで遡る庫裏はわずかです。
享和元年(1801)刊行の「河内名所図会」に描かれた顕証寺には、本堂とその背後に庫裏、外郭施設である表門、築地塀、長屋、長屋門、渡廊があり、現在でも同じ位置に見ることができます。本堂の再建に先立って庫裏が完成しており、顕証寺に残る建築物では、最も古いものです。
[八尾市指定文化財:平成20年12月24日指定]

けんしょうじ ながやもん・ふぞくにしながや、ひがしながや、わたろう
顕証寺 長屋門・附属西長、東長屋、渡廊

顕証寺は、本願寺の蓮如上人の子息や一門が、各地に布教の拠点とした御坊格寺院(ごぼうかくじいん)のなかでも中核寺院です。東面する本堂の正面に表門と築地塀があり、北側は、現在通用口となる長屋門と築地を兼用する「西長屋」があり、本堂と「東長屋」をつなぐ「渡廊」があります。
 改造や補修が加えられている部分があるものの、江戸時代中期の建造物として、当初の材や構造が残っており、平成18年度から修理整備事業を行いました。
 本堂で行われる公的な法会等で使用されるのに対し、日常的に使用された部分で、東長屋の一部には、カマドのある台所であったことを示す痕跡が残されており、東長屋の東端の間は、茶所であった可能性があります。
 御坊格寺院の外側をめぐる施設が、現在まで残っている寺院は、西本願寺・東本願寺がその典型ですが、各地の御坊格寺院では、付属施設を完備していない寺院もあります。顕証寺の北側と西側の通りに面する東長屋、長屋門・附属西長屋が続き、寺内町の歴史的景観を残しています。
[八尾市指定文化財:平成18年3月20日指定]

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