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神社・仏閣

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鳥居

しぶかわはいじあと
渋川廃寺址

渋川天神社は素盞嗚命、菅原道真を祀る古社である。神社の南西の地は、白鳳時代に渋川寺のあったところで、昭和十年ごろ国鉄の竜華操車場を開設工事のとき、多数の単弁八葉や忍冬唐草紋の瓦及び塔心礎が出土した。また一説にはこの附近は物部守屋の別業の地でそこに渋川寺があったともいわれている。仏教崇拝抗争や古代の仏教を再検討すべき課題を提起している寺址である。 【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、1987年)】(石板の裏面が見えず、出典者等確認出来ず)

本殿

みのあがたぬしじんじゃ
御野県主神社

三野県主一族の祖神、角凝魂命・天湯川田奈命を祀る延喜式内社である。三野郷と呼ばれてきたこの地一帯は、古代天皇家の直轄地といわれる三野県のおかれていた土地である。三野県主氏はこの県の管掌氏族で、河内国はもちろん朝廷においても有力な氏族の一つであった。中世この地は玉櫛庄となり、正和三年(一三一四)に七条院領美濃勅旨田、また永禄八年(一五六五)には美濃勅旨本役六百文が八尾常光寺に寄進された記録がある。【出典『史跡の道・説明石板』八尾市・八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

正面からの山門

だいしんじ(やおごぼう)
大信寺(八尾御坊)

真宗東本願寺の別院、慶長一一年(一六〇六)久宝寺村の森本七郎兵衛貞治ら一七人衆は、東西本願寺の分立にさいし、東本願寺教如上人に属したため、村を出て八尾庄四町四方の地を与えられて移住、 八尾御坊を建立、寺内町をつくり、八尾発展の基を開いた。 万治三年(一六六〇)現地に移建 天明八年(一七八八)京都の本山が焼けたときは、この本堂を移して仮御影堂に代え、一〇年後再びかえされ旧に復した。 昭和二八年三月三日突如本堂の棟がくずれ、その後いまのような全面改修となった。境内には河内県庁跡があり、お逮夜市でにぎあう。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

玄関

てんだいいん
天台院

紫雲山天台院といい、天台宗延暦寺末で、開基は南朝の勤王僧文観上人と伝えられる。 上人は南朝二代に仕え、正平一二年(一三五七)天野山金剛寺で八〇歳で入寂したという。 播磨国一乗寺で天台教学を修め、さらに真言律宗を北条寺で学び、壮年四天王寺に遊び、このとき河内に小庵を結んだと古記録にあるのがこの天台院であろう。 今東光和尚が特命住職となったのは昭和二六年、作家として、政治家として二四年間もこの地を愛し河内を舞台に数々の名作を生み、一躍世の脚光を浴びたが、昭和五二年没、墓は東京上野東叡山寛永寺にある。【出典『史跡の道・説明石板』八尾市・八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

正面

じがんじ
慈願寺

福井山と号し、真宗東本願寺末。開基は親鸞聖人直弟二十四輩のうち第十三番信願房法心(俗名那須肥前守資材)といい、聖人の関東布教のさい帰依した。法心は下野国に慈願寺を建てたが後京都に上り、弘安三年(一二八〇)遺名により久宝寺村に来り慈願寺を建て、文明二年(一四七〇)蓮如上人久宝寺布教のさいは、久宝寺に顕証寺が設けられ東大阪の真宗弘布の中心となった。慶長一一年(一六〇六)東本願寺につき、森本行誓ら一七人衆と八尾に移り、院家として八尾御坊大信寺の役寺となった。親鸞聖人絵伝など寺宝が多い。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

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