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神社・仏閣

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鳥居

あとべじんじゃ
跡部神社

由来:当神社は延喜式内社(今より約阡八十年前)人皇天皇第六十代醍醐天皇時代に延喜年間と言ふ年号が有り、通稱平安時代又は藤原時代と言はれております。其の初期にお祀りされておりましたのを今の跡部神社であり、その時に有りました神社を式内社と言はれております 又神社の創建せられました年月は不明でお祀りして有る御祭神もあきらかでありません 然し此の地は昔から古の跡部郷と言ひ阿刀連と言ふ人がおられました。それ故に阿刀の連と言人の祖先としてお祀りされたと言はれております。しかるに明治五年四月太政官公附で天照皇大神 伊弉册大神を一緒に合祀せられ同年に村社に列せられました 現在は天照皇大神 阿刀連大神 八王子大神の御三方の神様がお祀りしてあります 八王子大神様とは北亀井の里に小さなほこらにお祀りして有りましたが昭和の初期に神社に合祀されました 跡部神社の建造昭和四十八年十月正遷宮に建設す 【出典:説明石板』(跡部神社社殿竣工記念芳名石1973年)】

本殿

あのうじんじゃ、はいせんがんじあと
穴太神社、廃千眼寺跡

当地域は安康天皇の設けられた穴穂部の地、聖徳太子の生母間人穴太部皇后の成人の地といわれる。当社は古代氏族穴太氏の一族の祖紳を祭る産土神で、境内に残る寺跡はその氏寺であつたと考えられる。同寺は河内鑑名所記、和漢三才図会に名刹千眼寺として紹介されている。この社の付近一帯はそのむかし大集落の繁栄がうかがわれこれまで奈良時代から室町にかけて住居跡の埋没が確認され 昭和五六年の調査では多くの遺物が発掘されている.【出典『史跡の道・説明石板』八尾市・八尾郷土文化推進協議会・八尾市教育委員会、1982年】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

社殿

あまてらすおおみかみたかくらじんじゃ
天照大神高座神社

天照大神高座神社:教興寺字弁天山の山腹にあり、梅岩寺本堂の裏道から谷を通って通じる近道がある。式内社で、もと春日戸神と称したという。貞観1年(859)1月には従五位上を授けられている。神殿は高所にある巨岩の窟の中に有り、傍に白飯の滝がある。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】

本堂

あんようじ
安養寺

この地は恩智字向谷といい、本寺裏山の通稱垣内山のすぐ裏手の山裾から大正十年(一九二一)風雨のため山崩れが生じその赤土露出部より流水紋銅鐸が発見された。流水紋様は弥生時代前期から中期にかけて近畿を中心に流行した流水紋土器に見られ、この鐸もその影響を受け作られたものであろう。 銅鐸は現在東京博物館にありその拓本が当寺にある。安養寺は浄土宗で本尊は阿弥陀如来である。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

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