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神社・仏閣

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鳥居

たこちじんじゃ
竹渕神社

①天照皇大神宮を祭る。昔は水田の中、周囲を濠で囲まれた神社であったが、住宅地が接近してきたため、昭和44年、周濠(宮池)の一部を埋め立てて神域を広くし、まわりの住宅地との間に緑地帯をつくった。この宮池には龍神が住むと言い伝えられている。神社の森にある楠の大木が市の保全樹木に指定されている。竹渕の名は、神武天皇が長髄彦に襲われたとき、この地にあった大竹藪の渕にかくれ難をのがれたといういい伝えによる。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光著・八尾市市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会1998年)より抜粋】  
②竹渕西2丁目の南端には、馬洗池跡の碑がある。大坂の役の時、関東方の兵が馬を洗い水を飲ませた池があったと伝える。また、昔の亀井村と竹渕村の境界の川に架かっていた永代橋が今、中央環状線亀井交差点の西の公園にある。文化3年の築造。出典:『八尾の史跡』(棚橋利光著・八尾市市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会1998年)より抜粋】

社殿

たまのおやじんじゃ
玉祖神社

式内社で玉祖明神とか、高安明神ともいう、 高安十一カ村の氏神で、和銅三(七一〇)年周防国から分霊を勧請したもので、祭神は櫛明玉命である、この地に玉造部の人人が住んでいたので、その祖神をまつったものであろう。 寺宝も多く、北条時政の制札(重文)男女神像(府、重、美)樟樹(府天然記念物)豊臣秀頼寄進の石灯篭などがある。 神社の北方を東西に十三街道が走り、大阪の玉造に通じ、玉祖、玉造りの地名からこの街道のもつ意義は大きい。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1981年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

鳥居

つぶくみじんじゃ
都夫久美神社

延喜式神名帳では小社に列せられており、古代の大豪族物部(もののべ)氏の祖神宇摩志摩治命(うましまじのみこと)を祭神とする。ツブクミという社名は、物部氏の一族積組連(つぶくみのむらじ)に由来する。(新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)による)近世頃には香森大明神と呼ばれ社地を中の森と言っていた。この神社の西方には弥生時代の集落址である水越遺跡が広がっており、その関連がうかがえる【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、甲斐房之助 書、1992年)】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

鳥居

つるみしまじんじゃ
都留美島神社

①里中の開けた土地に鎮座する小社。この地はかつての由義宮の中心部に近く、また弓削氏の本拠地でもあつた。社名の都留美島の意味がよくわからないが、あるいは、この付近の三角州の微高地を呼んだ名前であろうか。現在の集落の西側、神社からは少し北西の方向に、神社の旧位置があつたとされている【出典:『延喜式神社の調査→都留美島神社』を参考】

 ②都塚:河内志に「荒墳五有都塚村有紙園塚、弁財天塚等号」などとある。都留美島神社の地を都塚、西方田圃中の塚を弁財天塚、北方村の入り口を大塚、融心寺内の塚を祇園塚と呼んでいる。古く10塚あったので、なまって都塚となったともいう。古瓦片が多い。神社は式内社で、もと南方にあったのを、ここに移したものと伝える。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】

玄関

てんだいいん
天台院

紫雲山天台院といい、天台宗延暦寺末で、開基は南朝の勤王僧文観上人と伝えられる。 上人は南朝二代に仕え、正平一二年(一三五七)天野山金剛寺で八〇歳で入寂したという。 播磨国一乗寺で天台教学を修め、さらに真言律宗を北条寺で学び、壮年四天王寺に遊び、このとき河内に小庵を結んだと古記録にあるのがこの天台院であろう。 今東光和尚が特命住職となったのは昭和二六年、作家として、政治家として二四年間もこの地を愛し河内を舞台に数々の名作を生み、一躍世の脚光を浴びたが、昭和五二年没、墓は東京上野東叡山寛永寺にある。【出典『史跡の道・説明石板』八尾市・八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年】

*石板の説明には一部現状と異なる場合があります。

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